日本各地の近代建築探訪など
10月28日より11月5日まで開催される「まちかどの近代建築写真展in長井Ⅴ」のスライドショーをアップしました。
「まちかどの近代建築写真展in長井Ⅴ」(通算第70回)
テーマ「医院建築」
・会 場:小桜館(旧西置賜郡役所)
・会 期:2017年10月28日~11月5日(10月30日は休館)
・時 間:9:00~16:30(初日は15:00より。最終日は16:00まで)
・会 場:小桜館(旧西置賜郡役所) (山形県長井市十日町1-11-7)
・入場料:無料
・主 催:(特)長井まちづくりNPOセンター
・企 画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
「まちかどの近代建築写真展in 上山」(通算第68回)
テーマ「可愛いからモダンまで 病院建築」
会期:2017年9月30日(土)~10月7日(土)
午前9:00~午後5:00(最終日は午後4:00まで)
※10月7日午後3:00~4:30にギャラリートークを開催します。
会場:長屋門ギャラリー(山形県上山市十日町2番8号)
入場料:無料
主催:NPO法人上山まちづくり塾
協力:長屋門ギャラリー運営委員会
まちかどの近代建築写真展実行委員会
近代建築探訪メーリングリスト
「まちかどの近代建築写真展」も、今回で第46回を迎えることとなりました。
埼玉県入間市の「入間市文化創造アトリエ アミーゴ」にて、約2か月間にわたり「まちかどの近代建築写真展」を開催いたします。前期は「郵便局」を、後期は「駅舎」を展示いたします。
会場の「入間市文化創造アトリエ アミーゴ」は、昭和12年築の旧埼玉県繊維工業試験場入間支場の建物などを利活用した施設です。
「まちかどの近代建築写真展in仏子アミーゴ」第46回
会期:2015年6月7日(日)~7月26日(日)
会場:入間市文化創造アトリエ「アミーゴ」
(埼玉県入間市仏子766-1)
交通:西武池袋線仏子駅下車徒歩5分
旧国立新屋倉庫(昭和9年築)。現在、秋田公立美術工芸短期大学のアトリエ、ギャラリーとして活用されています。
旧国立倉庫(大正15年築)。鉄筋コンクリート造タイル貼りの平屋6棟が並んでおり、現在、解体工事進行中です。
旧中平田尋常高等小学校(昭和7~9年築)。玉上義男設計、本田猪七施工。下見板は木材ではなく、浅野板壁という人造スレートの新建材です。
仰徳記念館(明治17年築、昭和13年移築)。旧有栖川宮邸日本館の一部を移築。掛川市指定文化財。
淡山翁記念報徳図書館(昭和2年築)。大日本報徳社の敷地内に建つ私設図書館。静岡県指定文化財。
旧石川組製糸西洋館本館(大正10年築)。室岡惣七設計による石川組の迎賓館だった建物で、登録有形文化財に登録されています。
屋根が浮いたような状態なのは、蔵だったからなのでしょう。四角い建物に、中央上部の小さな鏝絵の飾りがアクセントになっています。
一誠堂支店。一誠堂といえば神保町の古書店が有名ですが、飯能のこの支店は何屋さんだったのか。
正面左側の2つの小窓の庇が特徴的な建物。2階の窓も不思議。もしかしたら、2階はフェイクかも知れません。
鴻巣Cafeと同じ通りの建物。リフォームで新しく見えますが、スクラッチタイル、玄関灯、玄関の石段などを見ると、古い建物だと分かります。
鴻巣Cafe。交差した鎌の下に「カ」の字の屋号を配したカフェが併設された洋館で、元は塩問屋さんだったそうです。
旧草加小学校西校舎(大正15年築)。大川勇設計。登録有形文化財。埼玉県内で最初に建てられたRC造校舎で、現在、草加市立歴史民俗資料館として公開されています。
この門柱も、同じ時代のものでしょうか。
煉瓦蔵の並びにある石蔵。材質が、石蔵でよく見られる大谷石ではなく、粘板岩系の石材のように思われます。あるいは、薄い石材を貼ってある土蔵なのかも知れません。
キッズランド並びの煉瓦蔵。敷地を囲う塀も煉瓦造ですが、無残に崩されています。蔵は褐色系の煉瓦、塀はオレンジ色の煉瓦です。
旧キッズランド。総タイル貼りの2階建て陸屋根です。2階の窓が小さく長細いので、もしかしたらタイルをはがすと下見板貼りかも。
北西商店の石蔵。全面的に人研ぎ仕上げとなっており、あるいは土蔵を石蔵っぽく見せているのかも知れません。
旧船津眼科医院(昭和7年築)。日光御成街道鳩ヶ谷宿の入口、上り坂のゆるいカーブにそびえ建つランドマークです。
朝日湯。裸電球に照らされた装飾は、ただものではありません。内部はどれほどなものかと、期待が膨らみます。
中澤理髪店。旧中山道沿いの商店街にある床屋さんです。サインポールの乗っている表彰台のようなタイル貼りの台は何なのでしょう。
日本聖公会熊谷聖公教会(大正8年築)。川越の日本聖公会教会と全く同型の煉瓦造です。設計も同じウィリアム・ウイルソンとのこと。
第28回目となる「まちかどの近代建築写真展」。
今回は、埼玉県志木市での開催です。埼玉県内だけの近代建築を集めての展示ですが、これもまた思わぬ発見があったりして楽しい展示になりました。
会期も、あと今日1日だけですが、ぜひお越し下さい。
◆名称:「まちかどの近代建築写真展in志木」
◆主催:社団法人日本建築学会関東支部埼玉支所
NPO法人東上まちづくりフォーラム
まちかどの近代建築写真展実行委員会
◆協力:近代建築探訪メーリングリスト
◆会場:志木サテライトオフィスセンター
(東武東上線柳瀬川駅西口徒歩1分)
◆会期:2012年11月10日(土)、11日(日)
◆時間:10日(土) 午前12:00~午後4:00
11日(日) 午前10:00~午後4:00
◆入場料:無料
W邸。玄関に洋間が付いている建物を見つけて喜んでいると、内部を見学させてもらう予定になっていた建物でした。
旧明石医院。三輪医院のすぐそばにある医院の旧館で、和館ですが、取って付けたような庇がちょっと洋風です。
三輪医院。道に対して何故この向きに玄関があるのか不思議ですが、1階、2階の丸窓がアクセントになっています。
Barberアオバヤシ。妻沼で見かけた物件で、フィンガービスケットのような豆タイルの円柱と、側面の規則的な庇がポイントです。
坂田医院旧診療所(昭和6年築)。国登録有形文化財に登録されています。利根川に近い旧妻沼町に、このような陸屋根の建物ができたのかか不思議です。水運で、東京と直接つながっていたからでしょうか。
旧国鉄大宮工場燃料用倉庫(明治30年築)。何回かここの前を通っているはずなのに、今日まで気付かずにおりました。
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場守衛所(昭和12年築)。戦後、住宅として使われていたので、内部は大幅に改造されているとのこと。
旧熊谷陸軍飛行学校桶川分教場本部兵舎(昭和12年築)。現在のホンダエアポートの場所が、旧陸軍の飛行場だったと知ったのはごく最近のことです。そして、そのそばに当時の建物が現存していました。戦後は市の引揚者住宅として、つい近年まで使用されていました。現在は空家で、更地にして用地を国に返還する期限が迫っており、保存運動が行われています。
11月10日(土)、11日(日)の2日間、埼玉県志木市の志木サテライトオフィスセンターで、「まちかどの近代建築写真展in志木」を開催します。埼玉県内の近代建築の写真を展示する予定です。
「埼玉住まい・まちづくり交流展2012in志木」内のイベントになります。
神山家煉瓦蔵(大正10年築)。平方煉瓦製造所の煉瓦で、上尾市指定有形文化財に指定されています。
神山家煉瓦塀(大正10年築)。平方煉瓦製造所の煉瓦で、上尾市指定有形文化財に指定されています。
国分スタジオ。裏通りを歩いていたら、突然現れました。棕櫚の具合といい、最高のロケーションの物件です。
堀会計事務所(昭和初期築)。大谷石による彫りの薄いライト式の門柱の奥に、洋館付住宅が見えます。
日吉町の旧商店。道が小さくカーブしていて、どちらからでも側面が見える位置に建っています。
江野邸煉瓦小屋。ご当主のお話によると、女中部屋と使用人炊事場として使われていたとのこと。
旧郵便局。正しい名称が不明ですが、1階は郵便局、2階は電話交換所だったとのこと。現在、島田医院として現役です。
旧八十五銀行松山出張所倉庫。保岡勝也設計で、昭和初期築のRC造3階建。内部は太い4本の円柱が梁を支えています。担保にとった繭を保管するための倉庫とのこと。この倉庫の前には、事務所棟も建っていたのでしょう。どんな建物だったのか。
外観のペイントは、ぜひ消して欲しいものです。
竹ノ谷歯科医院。複雑に増築されていますが、玄関部分を見ると下見板張りの建物であることが判ります。
竹筋コンクリートについては、これまでこのブログで情報を募ってきましたが、これはという物件には出会えずにおりました。
この度、沖縄県の竹富島へ行く機会があり、そこで竹筋コンクリートの情報を得ました。1953年築の「なごみの塔」と呼ばれている国登録有形文化財で、もともとは放送台として住民総出で築いたということです。伝建地区の中心にあり、現在は展望台として観光スポットとなっています。
歴史民俗資料館で竹筋コンクリート造(一部鉄筋)であると聞き、戦後にも竹筋コンクリート造の物件があるのだと驚きました。
小生もこの「なごみの塔」に登ってみましたが、踏面が10センチくらいしかなく、蹴上げも35センチ、斜度60度という階段で、とにかく怖ろしい展望台です。手すりが非常に肉厚であるのが、竹筋コンクリート造ゆえなのでしょう。
「なごみの塔」からの展望
旧制松山中学校校舎(大正12年築)。松山高校記念館として、校舎の中央部分を保存しています。
野首教会堂。明治41年(1908年)築。鉄川与助が設計・施工した最初の煉瓦造の教会堂。県指定有形文化財。住民の離島により無人島となった野崎島の、集落を見下ろす小高い丘に建っています。
黒島教会堂。明治35年(1902年)築。マルマン神父設計、前山佐吉ほかの施工による煉瓦造の教会堂。国指定重要文化財。連絡船で50分かけて黒島へ渡り、アップダウンのある野道を歩くこと30分。だんだん見えて来る天主堂の美しいこと。教会の後ろに周ると、どこかの写真集で見た円い煉瓦積みがありました。
昨日、「まちかどの近代建築写真展in上尾」が無事終了いたしました。
立地や開催時期に難があったか、はたまた展示内容に全く関心がなかったか(笑)、まるで図書館にいるように毎日数冊の本を読み終えました。
小生の地元での開催でしたので、数十年ぶりの懐かしい再会もあり、とても貴重な機会となりました。
また、ミニコーナーとして展示した「関根要太郎」については、市役所の方の関心が高く、いろいろお話をうかがうことができました。関根要太郎は、戦後、埼玉県内の学校建築を多数建てたのですが、その採用工法である「平衡構造工法」というのが、今日では問題があるようで…。説明を聞くと、なるほどと思わざるを得ないものでした。
お出でいただきました皆さま、ご協力いただきました皆さま、誠にありがとうございました。
「まちかどの近代建築写真展in上尾」がスタートしました。
今回は、全国の煉瓦建築特集です。300点強の写真を展示しております。
また、関根要太郎研究室@函館さんによる関根要太郎の簡単な略歴と戦後上尾で行った活動内容の展示も用意いたしました。
◆名称:「まちかどの近代建築写真展in上尾」
◆主催:まちかどの近代建築写真展実行委員会
◆協力:近代建築探訪メーリングリスト
◆会場:上尾市役所ギャラリー
埼玉県上尾市本町3-1-1(市役所東棟1階)
◆会期:2012年8月8日(水)~8月14日(火)
午前10:00~午後8:00
但し、8/8は午前中設営につきPM1:00より、
8/14は撤収によりPM4:00まで
◆入場料:無料
小生の地元であります埼玉県上尾市で、「まちかどの近代建築写真展」の開催が決まりました。JR上尾駅から徒歩10分ほどの所です。
◆名称:「まちかどの近代建築写真展in上尾」
◆主催:まちかどの近代建築写真展実行委員会
◆協力:近代建築探訪メーリングリスト
◆会場:上尾市役所ギャラリー
埼玉県上尾市本町3-1-1(市役所東棟1階)
◆会期:2012年8月8日(水)~8月14日(火)
午前10:00~午後8:00
但し、8/8は午前中設営につきPM1:00より、
8/14は撤収によりPM4:00まで
◆入場料:無料
宝地区の洋館付住宅。真四角の建屋は、四畳半のお茶室のようでもありますが、おそらくは応接間なのでしょう。
光。甲府駅南口で、平和通り右側(西側)の区画を歩いていて見つけた物件。何屋さんだったのでしょうね。
愛宕山の中区配水施設。「やまなし・まちかど図鑑」の凡苦楽庵さんに教えてもらった地下配水池の出入口上屋です。
装飾の賑やかな看板建築。大通りではなく、横道に入ったところに建っています。「やまなし・まちかど図鑑」によれば、左官屋さんのお宅とか。
旧古川銀行鴨川支店(大正11年築)。昭和初期に旧銀行の建物を移築したもので、現在、小高記念館として活用されています。
本位田耳鼻咽喉科医院の洋館。川向こうから見えたこの建物に近づく道を、ずいぶん探し歩きました。
鈴木家住宅主屋(大正13年築)。登録文化財。産婦人科「赤門鈴木医院」の鈴木勝太郎氏が住宅として建てた洋館です。
旧千葉県立安房高等女学校屋内運動場(?)。体育館の隣に、講堂とは別の建物が建っていました。
旧千葉県立安房高等女学校講堂(昭和6年築)。平成20年の高校統廃合後、空家のままとなっています。
はまゆり調剤薬局。
この盆休み、東日本大震災後初めて津波被害のあった町を歩きました。1階部分は津波でやられていますが、構造は大丈夫そうです。
出津教会堂。明治15年(1882年)築。ド・ロ神父が私財を投じて建てた煉瓦造の教会堂。県指定有形文化財。
神ノ島教会堂。明治30年(1897年)築。デュラン神父が私財を投じて建てた煉瓦造の教会堂。
馬込教会堂。昭和6年(1931年)築。訪問時、ちょうど結婚式の真最中でした。国登録有形文化財。
生月島の市街地で見かけた大きな木造物件。旧劇場の類ではないかと思い地元の方にうかがうと、網などを直す作業小屋とのこと。
田平教会堂。大正7年(1918年)築。鉄川与助設計・施工による最後の煉瓦造教会堂。国指定重要文化財。
紐差教会堂。昭和4年(1929年)築。鉄川与助の設計・施工によるRC造の教会。思い返すと、30年ほど前、学生時代に平戸ユースホステルで勧められて訪れたことのある教会堂でした。
宝亀教会堂。明治31年(1898年)築。黒島で洗礼を受けた宇久島の宮大工が建てた煉瓦造の教会。
気仙沼ハリストス正教会(昭和8年築)。地図を見ても場所が分からず、ちょっと探してしまいました。
気仙沼カトリック教会(明治42年築)。高台の中腹にあり、幼稚園を併設しています。門柱には、とても味のある文字が刻まれています。
漁場料理福よし。鶴や亀などのおめでたい鏝絵が、ポツンポツンと4箇所に付いています。元は料亭でしょうか。
臼福。海産物、魚問屋の建物。石蔵をはさみ、建物が港まで連なっています。港側は銅板貼りです。
ぼんじゅーる。遠くから塔屋が目につき、やっと探し当てた建物です。店舗正面には4頭立て馬車のステンドグラスが掲げられています。
ポストの隣の商店。2階の大通りに面して並ぶ3つの窓のうち、中央の窓の幅だけが少し広くなっています。
日本基督教団宮古教会。円窓のあたりを見ると、古い建物であることが分かります。この教会の並びの和菓子屋さんで、宮古のお赤飯のことを聞きました。驚いたことに、北海道と同じ甘い金時豆のお赤飯なのです。
旧東屋酒造。カメラを構えているとご主人がお出でになり、ひとしきり津波のお話などをしたのでした。宮古にこのような立派な建物が残っていることに驚くと、かつての津波はこのあたりまでは来なかったのだということでした。
健康堂薬局の隣には、立派な門柱と高い庭木の奥に木造3階建ての建物が見えます。やはり、旅館か料亭だったのでしょうか。
宮古ホームクリニック。半円形に張り出した縦格子の2階部分が、写真館や映画館のようにモダンです。
こちらの石蔵は更地の隣にポツンと建っていました。
戸口の上部の石組みは、アーチの上の楔石のようでもありますが、アールデコのデザインなのかも知れません。
宮古市消防団第五分団。新しい建物ですが、岩手や青森で多く見られる屯所の形を踏襲しています。
国道の一本山側の細い通り沿いで見かけた土蔵。土台に石材が使われており、先の津波の後に建てられたものではないでしょうか。
まりや。この建物を撮影していると、ランドセルを背負った男の子が話しかけてきてくれました。元はカフェで、小さいときに親と入ったことがあるとのことでした。
JR宮古駅(昭和9年築)。
この度の東北地方太平洋沖地震では、多くの尊い生命が失われました。謹んでご冥福をお祈りいたします。また、被災された皆様には、心よりお見舞申し上げます。
いずれ、研究者の方々が被災状況の調査に入ります。その際に少しでも役立てばと思い、震災前の町々の写真をUPしておきます。
三角西港の石積み。明治20年、お雇い外国人ムルドルにより設計された、明治三大築港の一つです。どこも、角を丸くして積んである石積みは、石工の手仕事を感じさせます。
旧三角海運倉庫(明治20年築)。現在、三角築港記念館として、飲食及び物品の販売所として使われています。
龍驤館(大正7年築)。何やらモダンな感じがするのは、やはり大正時代の建物だからでしょうか。国登録文化財。
浦島屋(明治20年代築)。明治38年に解体され、大連に運ばれてたとありますので、三角では短命な建物だったようです。平成5年に設計図を元に復元。所縁の地に建てられたことは、まずはよかったと思います。
児玉時計店。側面の、丸窓を付けそうなところにあるカマボコ型の窓が、可愛らしく感じます。
江上教会堂。大正7年(1918年)築。奈留島のフェリーターミナルからタクシーで20分ほど行ったところに建つ、鉄川与助の設計・施工の可愛らしい教会堂。国指定重要文化財。
福江教会堂。昭和37年(1962年)築。同年9月26日に発生した福江大火の際には、新築直後だったこの教会堂だけが焼け残ったといいます。
堂崎教会堂。明治41年(1908年)築。ペルー神父の指導により建てられた入り江の教会堂で、県指定有形文化財。
水ノ浦教会堂。昭和13年(1938年)築。鉄川与助設計・施工による、海を望む、繊細で優美な木造の教会です。
楠原教会堂。明治45年(1912年)築。福江島の内陸にあり、幹線のバス停から少々歩きます。煉瓦の色と2本の棕櫚が、いかにも南国風で似合っています。
旧五輪教会堂。明治14年(1881年)築。昭和6年に浜脇教会堂を新築する際に、旧浜脇教会堂を五輪地区に移築したもの。
浜脇教会堂。昭和6年(1931年)築。久賀島の丘の上に見える白亜の教会堂で、久賀島へは福江港から渡船で渡ります。
奈良尾港で見つけた物件。柱頭飾りっぽい細工や、アーチ状の飾りは、左官仕上げでしょうか。
旧青方村役場庁舎(昭和3年築)。旧上五島町役場庁舎、民俗歴史資料館などに使用された後、平成21年(2009年)に改修され、青方地域交流センター・青方子育て支援センターとして活用されています。
旧鯛ノ浦教会。明治36年(1903年)築。昭和24年(1949年)に煉瓦造の塔が増築された。煉瓦の一部は、旧浦上天主堂の被爆煉瓦とのこと。昭和54年(1949年)に、新しい教会堂が建てられ、この建物は図書館として転用されています。
佐野原教会。昭和38年(1963年)築。海から離れた山の奥にある教会堂で、撮影時は葬儀の最中であった。
頭ヶ島教会。大正8年(1919年)築。鉄川与助の設計施工で、島内の切石積による石造教会。天井は、二重持送りのハンマー・ビーム架構となっており、国指定重要文化財。
大曾教会。大正5年(1916年)築。鉄川与助設計施工、柱頭の彫刻は父の与四郎による。ステンドグラスは西ドイツより、煉瓦は早岐より仕入れたものという。
冷水教会。明治40年(1907年)築。鉄川与助棟梁が27歳で独立し、初めて設計施工した教会。
青砂ヶ浦天主堂。1910年(明治43年)造。国指定重要文化財。鉄川与助棟梁が建てた煉瓦造2棟目の建物。信者の労働奉仕で、男は舟で資材を運び、女・子供は浜から背負子で煉瓦を担ぎ上げたという。
江袋教会。明治15年(1882年)にオーギュスト・ブレル神父の指導の下、川原久米吉棟梁が建てた教会で、長崎県指定文化財。平成19年(2007年)2月17日に漏電が原因で骨組みを残して焼失、平成22年(2010年)3月に復元された。外観は、素っ気ない木造平屋の建物ですが、内部はヴォールト天井(こうもり天井)です。
まちかどの近代建築写真展in旧神戸生糸検査所(第19回)
日本の煉瓦建築特集
会期:2010年10月9日(土)~10月11日(日)
時間:10月9日(土)13:00~17:00
10月10日(日)9:30~17:00
10月11日(日)9:30~15:30
会場:旧神戸生糸検査所1階旧フィラメント検査室
兵庫県神戸市中央区小野浜町1番地
主催:まちかどの近代建築写真展in神戸実行委員会
企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:近代建築探訪メーリングリスト
協賛:港まち神戸を愛する会
現在、神戸市の所有する旧神戸生糸検査所の建物は、今後どのように活用していくか、さまざまな試行錯誤行われています。
今回は、400枚の写真を白い一室に一堂に展示した初めての写真展でした。他地域の物件との比較が面白く感じられる、そんな写真展になりました。
まちかどの近代建築写真展in神奈川県立柏陽高校(第18回)
日本の煉瓦建築特集
会期:2010年10月2日(土)~10月3日(日)
時間:2日(土)10:00~15:30 3日(日)9:30~15:00
会場:神奈川県立柏陽高校(神奈川県横浜市栄区柏陽1-1)
教室棟4階の2年7組教室
企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:近代建築探訪メーリングリスト
高校の文化祭での開催でした。
高校生たち、そして写真展目当てではなかった方々には、どのようにご覧いただけたか、とても興味があります。
旧清力酒造事務所(明治41年築)。現在、大川市立清力美術館として公開されています。2階のカーテンボックスの下に古い壁紙が残っているのですが、あるいは金唐革紙かと見ましたがいかがでしょうか?
旧三潴銀行本店(明治42年築)。現在、三潴銀行記念館として公開されています。昨年までの改修工事も終わり、今年、ようやく撮影することができました。
旧宝珠山炭坑クラブ。炭坑のゲストハウスとして建てられた建物です。俳優の高倉健の父親がこの宝珠山炭鉱の幹部社員として赴任しており、幼き日の高倉健もこのゲストハウスに泊まったのだとか。ほうしゅ山荘として活用の後、現在は山村文化交流の郷・いぶき館として公開されています。
旧大行司小学校校舎。旧宝珠山中学校と同じ宝珠山小学校の敷地隅にあり、兵舎のような木造2階建ての建物です。
旧宝珠山中学校校舎。敷地は現在、宝珠山小学校となっており、そのグランド隅に残っている状態です。
旧宝珠山村役場(昭和12年築)。間口に比べ奥行のある建物で、「昭和倶楽部」の看板がかかっていますが、どのような活用がされているのかは不明です。
旧事務所。宝珠山の市街地に建つ建物で、2階は大広間のようですが、何の事務所だったのでしょうか。
宝珠山駅前で見かけた洋館。シンメトリーな外観、スパニッシュな色合いの瓦屋根、出窓、スクラッチタイルなど、気になる建物です。
小松橋(昭和14年築)。石材を寄せ集めたような親柱と、ちょっと凝った加工をした石造の欄干の橋です。
江本酒造。煉瓦の煙突が見えるのですが、周囲を巡ってみても建物に近付くことができませんでした。
美濃歯科医院(昭和5年頃築)。大通りから一本奥に入った旧道沿いに建つ、美しい現役の歯科医院です。
旧善通寺町郵便局(明治33年築)。何やらスゴイ建物が残っているナと思い撮影した建物ですが、帰宅して調べてみると旧郵便局でした。現在、喫茶店として使われています。
旧琴平参宮電鉄赤門前停車場待合所(大正12年築)。取って付けたような櫛形のペディメントが載っています。
パナールイオン化粧品。アーケードで見えにくいのですが、SとMの組み合わせたマークが付いています。
中国銀行善通寺支店。銀行建築では常連の中国銀行ですが、古いものかいつも悩まされるのも中国銀行です。
スタジオフォトセンターアオキ。いかにもなハーフチンバーの建物ですが、軒下を見ると結構古そうです。
善通寺北側の通りに建つ洋館。屋根の両端のツノを見て怪しいと近付いてみると、どうも屋根裏部屋があるようです。
善通寺敷地内の毘沙門天奥で見かけた洋館。2連アーチ窓の付いた、一室のみの細い二階建てです。
善通寺の北側で見かけた洋館。おそらく旅館だったのではないかと思います。が、何故か床屋さんだったのかもという思いにとらわれてしまうのは、ねじりん棒に見える装飾ゆえでしょうか。
温泉湯。善通寺の門前町にある銭湯で、庇を突き抜ける2本の棕櫚が気になります。ネオン管の「温泉湯」の文字が、いい感じです。
旧琴平参宮電鉄事務所。聞き取りによれば、別の場所にあった建物を善通寺門前に移築し、飲食店等に使用しているとのことでした。
旧陸軍第11師団輜重兵第11大隊倉庫(明治44年築)。寄棟屋根にドーマー形換気口が連続する煉瓦造の倉庫で、陸上自衛隊善通寺自動車教習所敷地内にあります。
旧陸軍第11師団輜重兵第11大隊本部(昭和16年築)。現在、陸上自衛隊善通寺自動車教習所の事務所として使用されています。
旧陸軍第11師団兵器部倉庫(明治37年~40年築)。陸上自衛隊善通寺駐屯地倉庫として、3棟の煉瓦造の倉庫が丁字型に並んでいます。
旧陸軍第11師団司令部(明治31年築)。陸上自衛隊第2混成団本部として現役の建物で、2階に「乃木記念室」として初代師団長であった乃木将軍の部屋が保存・公開されており、「乃木館」と呼ばれています。
旧陸軍第11師団騎兵第11連隊兵舎(明治30年築)。現在、四国学院大学2号館として活用されています。
旧陸軍第11師団騎兵第11連隊本部(昭和初期築)。現在、四国学院大学キャンパス内で「ホワイトハウス」として活用されています。
旧陸軍第11師団偕行社(明治36年築)。長らく善通寺市立郷土館として親しまれていましたが、平成13年に国の重文に指定されたのを機に平成16年より復元・改修工事が行なわれ、平成19年より旧善通寺偕行社として公開されています。
JR善通寺駅(大正11年築)。綺麗に改修されていますが、車寄せの柱の塗装などに歴史がうかがえます。
彦根地方気象台(昭和7年築)。各地に残る気象台と同じ匂いを感じるアールデコ調のモダンな建物です。
旧彦根高等商業学校同窓会館(昭和13年築)。ヴォーリズ設計による建物で、現在も滋賀大学陵水会館として使われています。
旧彦根高等商業学校講堂(大正13年築)。ヴォーリズ建築事務所設計による、かわいらしい塔屋の付いた建物で、現在は滋賀大学経済学部講堂として使われています。
スミス記念堂(昭和6年築)。旧彦根高等商業学校の英語教師であったアメリカ人牧師、パーシー・アルメリン・スミス氏が私財を投じ、地元の宮大工宮川庄助により建てられた和風の礼拝堂です。道路の拡幅工事で平成8年に解体保存され、平成18年に隣接地に復元されました。
日本基督教団彦根教会(昭和35年築)。戦後の物件とのことですが、扉の上に掲げられた「彦根基督教会堂」の大きな文字の額が歴史を感じさせます。
旧彦根信用金庫本店(大正13年築)。表通りから一本内側の通りに建っており、現在「俳遊館」として公開されています。
習志野市立津田沼小学校の円形校舎。東棟(昭和32年築)、西棟(昭和33年築)で、2棟の並ぶめがね校舎となっています。これまで小生が目にしてきた円形校舎に比べ、ここの円形校舎は圧迫感がなく解放感があります。これは、おそらく立地が高台ではなく平地であり、円形校舎の円周が大きいからなのでしょう。近々、建替えのために解体予定とのことで、敷地南側に新校舎を建て、北側に並ぶ円形校舎を解体する計画とか。何とか残せないものか、残念でなりません。
津田クリニック。高台の塀の奥に木造の入院棟が見えたので、全貌の見える場所はないかと廻ってみたのですがダメでした。
安芸カトリック教会聖母献身會司祭館。安芸カトリック教会の裏側に廻って見ると、この司祭館がありました。スパニッシュな、ちょっとヴォーリズっぽい雰囲気の建物です。
HPによれば、教会、司祭館共、昭和26年(1951年)築のようです。
http://www.omijapankorea.net/ja/history/history4.html
旧黒岩百貨店(昭和5年築)。旧市街地の入口にそびえ建つ、小生好みのコーナーがアールを描くモダン建築です。
安芸の野良時計(明治20年頃築)。安芸市街から1キロほどの土居地区にあります。以前は畠中の櫓時計と呼ばれていたようですが、1975年のNHK「ゆく年くる年」で野良時計と紹介され、その後野良時計の名が定着したとのことです。25年ぶりに訪ねましたが、道路が広く綺麗になり、周囲の様子も一変していました。当時は、知る人ぞ知るというようなところだったのですが……。野良時計の前の畑には、観光用でしょうか、菜の花が植えられていました。
旧中井銀行岩槻支店(大正後期築)。国の登録有形文化財で、東玉大正館として活用されています。
旧三菱金属鉱業中央研究所(昭和13年築)。以前は、塔屋に赤いスリーダイヤモンドのマークが付いていたのですが、いつの間に無くなってしまいました。
鈴木写真館(昭和4年築)。NHKの朝ドラ「なっちゃんの写真館」のモデルになった写真館と聞いていますが、ここでロケがあったのかは不明です。最近では、同じくNHKドラマ「八日目の蝉」でロケが行われています。
木立の奥にチラリと見える永国寺町の洋館。この地区は戦災から免れたようで、古い建物が多く残っています。
高知聖パウロ教会(昭和7年築)。高知城の北東に位置する永国寺町に建つ日本聖公会の教会です。
百足屋産業本社。赤いムカデマークの足袋屋さんの本社社屋で、正面左側面には円筒状の階段室が張り出しています。
帯屋町の商店街にある店舗ビル。うっすらと切り抜き文字の看板跡が見えるのですが、判読できませんでした。
旧高知市水道局ポンプ舎。鏡川から旭浄水場へ水を送るための施設で、現在は旭西部公民館として使われています。
高知市水道局旭浄水場(大正14年築)。残念ながら改修工事中で、近づくことも許されませんでした。
旧海南中学校校舎(昭和7年築)。現、高知県立高知小津高校の校舎の一部として活用されています。
上町の煉瓦蔵。お屋敷の跡地と思われる駐車場の奥に、この蔵だけが残されていました。煉瓦蔵には不要かと思われる、高知特有の水切り瓦が廻っています。
第六小学校(昭和9年築)。門柱がアールデコっぽく見えたので校舎をよく見ると、円窓やアールを描いた昇降口横の部屋などのある、時代の建物でした。おそらく内装も、アールデコの装飾が残っているのではないでしょうか。
中島町カトリック教会(昭和33年築)。戦後の建物ですが、門や塀の上などに古い装飾が残っています。
旧制城東中学校(昭和6年築)。高知城のすぐ下にある建物で、追手前高等学校本館として現役です。
旧県立川越高等女学校作法室(明治44年築)。現在、県立川越女子高等学校明治記念館として敷地内に保存されています。古い煉瓦造の門柱も残されています。
旧カワモク展示場(昭和2年築)。材木屋であるカワモクの展示場として建てられ、直後に旧六軒町郵便局となり、現在はレストラン「リストランテ・ベニーノ」として使われています。登録文化財。
国道沿いに建つ三角屋根の建物。外壁やサッシが改修されていますが、尖った屋根を見ると、これはホンモノです。
行田郵便局の向かいにある、スチールサッシの入った左右対称の建物。残念ながら、中央の丸いマークが判読できません。
旧小川源右衛門蔵(昭和2年築)。大谷石造の商品倉庫で、現在はカネマル酒店の倉庫として現役です。
田代医院。飾り気のない四角い建物ですが、よく見ると腰まわりにはタイルが貼られ、玄関横には棕櫚が植えられ、洋館のお約束を守っています。
旧栄冠被服の石造の門(大正5年築)。右手の3階建の土蔵(現クチキ建築設計事務所)と、左手の土蔵(現足袋蔵ギャラリー門)との間にある裏門です。
旧フヂイ写真館(大正築)。旧忍町信用組合と同じ通りに建ち、現在、長井写真館として現役の建物です。
旧忍町信用組合(大正11年築)。車の入らないような横道にチラリと見えた下見板張りの建物で、旧医院かと思いましたが、調べてみると旧銀行の建物でした。現在、新町自治会集会所となっています。
旧忍貯金銀行(昭和9年築)。現在、武蔵野銀行行田市店として現役の銀行建築で、国の登録文化財です。間口の大きさに比べ奥行きがあります。
柳乃湯。行田には結構銭湯が多いのですが、それは足袋工場の女工さんたちが沢山いたかららしいです。
旧城端織物組合事務所(昭和3年築)。現在、じょうはな織館として公開されており、国の登録文化財です。
旧松沢小学校校舎(明治38年築)。現在、森田建設が社屋として保存・活用しています。
敷地内には、大正10年築の旧体育館、昭和8年築の校舎も併せて活用されています。
旧住田医院か? 以前、ここを通りかかったときに、この古そうな洋館を見つけていたのですが、今回、webを検索してみると、どうも旧住田医院のようでした。
近代建築を訪ねて温故知新
http://agen.at.webry.info/200803/article_16.html
高い土塀の中にチラリと見えた洋館です。残念ながら、背伸びをしても全貌を見ることはできませんでした。
旧郵便局。残念ながら外壁が直されていますが、シンメトリーな窓や扉の配置、そして丸形ポストが効いています。
旧大谷記念会館(昭和36年築)。ホテルニューオータニの創業者大谷米太郎氏の寄付により生家近くに建てられ、現在、小矢部ふるさと博物館として公開されています。
旧福岡町役場(大正13年築)。町を見下ろす高台の一角に移築され、現在、福岡町歴史民俗資料館として公開されています。
東洋紡績入善工場塵突。入善駅からチラリと見える塵突です。全貌が見えないかと工場敷地をぐるりと一周しましたが、結局、駅のホーム側からしか見えませんでした。
東洋紡績入善工場事務所(昭和10年築)。なぜスパニッシュの建物なのかは不明ですが、北陸の紡績工場には面白い建物が多いように思います。
とちざわ。洋品店によくある新しい洋風の建物かとも思いましたが、屋根中央の角を見て、これは古い建物だと確信しました。
山内香山堂。唐破風の付いた寺院のような建物ですが、一番の見どころはやはりガラス貼りの2階で、さすが額縁屋さんだと思いました(笑)。
黒部市役所。大通りからアプローチの付いた、堂々とした役所建築です。垂直線を強調した総スクラッチタイル貼り、階段室は全面ガラス貼りという何ともモダンな建物で、左側の増築部分(?)の上には管制塔のような監視塔も付いています。
電鉄黒部駅。三角屋根の中央部分の、2本の白い真っ直ぐな柱が目につきます。じゃまでもありますが(笑)。木造のモダニズム建築です。
魚津の旧市街でみつけた洋風装飾の付いた建物。金閣自動車商会本社の隣です。右側の別棟は、倉庫でしょうか。
旧十二銀行。現在、魚津水産が使用し、現役です。敷地裏には、大正7年の米騒動のきっかけとなった米蔵も残っています。
高橋商店。JR伊勢崎駅前は、現在、区画整理で更地が広がっていますが、その先の一角に建つ看板建築です。
旧今村医院(明治45年築)。後に黒羽根内科医院旧館となり、平成14年に伊勢崎市へ寄付、道路を隔てて100mほど曳家され90度向きを振り、現在「いせさき明治館」として公開されています。伊勢崎市指定重要文化財。
旧時報鐘楼(大正4年築)。戦時中、釣鐘は金属供出され、空襲により塔屋部分も被災し、戦後は消防署の望楼として使用されていました。平成2年に塔屋部分が復元され、伊勢崎市指定重要文化財に指定されています。
JR伊勢崎駅(昭和9年築)。両毛線には多くの個性的なデザインの駅舎がありましたが、高架化により次々と取り壊されています。この伊勢崎駅も、後方に見える高架化完成後には解体とのことです。
旧伊勢崎市立伊勢崎女子高等学校円形校舎(昭和33年築)。伊勢崎高校との統合・共学化にともない、現在は「絣の郷」という名称で市民活動の拠点として活用されています。
旧岩切郵便局(明治35年築)。隣に新しい郵便局が建てられ、現在は日本新生キリスト教会岩切集会所となっています。
五戸町消防団第一分団屯所(大正11年築)。明治12年に建てられた最初の屯所が大正2年の大火で焼失し、同じデザインで大正12年に再建されました。青森県指定文化財。
中町会館。ポーチの付いた下見板張りの建物で、古い町屋の家並みの中に洋風の建物が挟み込まれている感じです。
PLAND。河口に近い川沿いに建っている開口部がとにかく少ない不思議な建物で、元々は何だったのか非常に興味のある物件です。
廣野医院(昭和7年築)。国の登録文化財で、建物側面を見ると、元々は美しい下見板張りの建物だったようです。滑川には面白い建物が沢山残っていて、まち歩きが楽しくなります。
タカギ。何屋さんだったのか、大きな石造風の建物と3階建ての建物が合体しています。奥行きもあり、堂々としてます。ちょっと小さいですが、百貨店でしょうか。
白雪とうふ。南材木町で見かけたトタンで覆われた工場壁面です。丁度、白雪とうふの別棟の建物が解体工事中でした。
ほまれや。戦災を免れ、道路の拡幅工事や地下鉄工事からも免れた、地下鉄河原町駅そばの染物屋さんです。
改革派仙台教会(明治38年築)。荒町の商店街の中ほどで、写真で知っていた建物が突然現れました。
旧陸軍第二師団歩兵第四連隊(明治7年築)。現在、仙台市歴史民俗資料館として使われています。
旧外人宣教師館(明治30年頃築)。駐車場の奥に、四角い下見板張りの洋館が見えました。かつては、駐車場は前庭だったようです。
旧仙台簡易保険局(昭和11年築)。旧的場邸のすぐ側にあり、現在、かんぽ生命保険仙台サービスセンターとして使われています。
荒巻配水池入口(大正12年築)。配水地の中央監視廊出入口で、国の登録文化財に登録されています。
荒巻配水所旧管理事務所(昭和8年築)。仙台工業高校出身の菊池孝太郎の設計による、モダニズム建築です。白いアールの階段室に、細いスリット状の窓や円窓が付き、建物の印象を決めています。
柴田女子高等学校の円形校舎。駐車場に面して美しい全貌が望める、現役の校舎です。
旧医院か? 商店街の中ほどにある建物で、煉瓦塀と石造の門柱、下見板張りの洋館、そして奥にちょっと洋風の土蔵が見えます。
武田内科小児科。国道沿いに建つ小さな洋館で、屋根裏部屋か明かり取りなのか、あるいは通気用なのかは不明ですが、大きな屋根窓が特徴的な建物です。
旧八井田醫院。県立山田高校のアプローチ横にある木造洋館で、遠くからも特徴のある屋根がよく見えます。
佐野内科リハビリテーションクリニック。木造校舎のような下見板張りの建物です。旧土佐山田町には、古い医院が多く見られます。
旧旭湯。銭湯の煙突が見えたので路地に入って見ると、どうも営業していない様子でした。調べてみると、昨年2月に廃業したようです。
山陽文徳殿(昭和9年築)。爆心地から約1.8kmにあるRC造の建物です。敷地は夏草に覆われたままで、建物は使われていない様子です。
旧広島測候所(昭和9年築)。爆心地から約3.6kmの地点の小高い丘の上にあるRC造のアールデコの建物で、被爆時には広島地方気象台でした。原爆の爆風などで窓ガラスは割れ窓枠が歪んだりしましたが建物は無事で、被爆直後以降も気象観測が続けられました。現在は、広島市江波山気象館として公開されています。
北秋本社。大館駅裏で見つけた下見板張りの事務所で、製材所か営林署の事務所ではないかと思われます。
北鹿ハリストス正教会聖堂(明治25年築)。大滝温泉駅より約2キロほどの集落にある教会で、秋田県指定有形文化財に指定されています。
東大館駅(大正3年築)。大館の中心市街地への最寄り駅となります。学生さんたちでいっぱいでした。
旧有浦小学校(旧大館第三尋常小学校・旧有浦国民学校)奉安殿。現在、東大館駅のそばにある大館神明社の参道に移築され、神輿蔵として使われています。
旧医院か? 立派な門柱や車寄せなど、いかにも個人医院だったのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
旧上高井郡役所(大正6年築)。間口に比べ、思いの外奥行きのある建物です。教育事務所、保健所などに転用された後、現在は市民交流室などとして活用されています。
旧都住小学校校舎(昭和12年築)。WEBで検索してみると、この建物は右側に長く教室の続いていた建物でしたが、隣接する幼稚園用地として解体され、現在の姿になったようで、ちょっと印象が違っています。現在、小布施町歴史民俗資料館として活用されています。
http://www.shinshu.co.jp/local/2002/021129/n10.html
旧新生療養所礼拝堂(昭和9年築)。カナダからの寄付によって建てられた結核療養所の礼拝堂です。
泉家具店。この商店街には、同じ時期に建てられたと思われるソックリなモルタル塗りの建物が多く建っています。
伊予駅前の通りにある銭湯。シンメトリーで屋根のバランスも良い、ちょっとお気に入りの建物です。
旧伊予農業銀行郡中支店(明治44年築)。現在、伊予ショップガイド事務所として使われています。
要町で見つけた洋館。新しく建てた喫茶店や美容院ではないかとの疑いもあるのですが、軒まわりがどうもホンモノに見えます。ただ、建物の薄さが……。
理容小林のある町屋の玄関。この部分だけ洋風に仕上げられています。理容店の並びということは、あるいは銭湯か?
水本女学校(大正6年築)。明治35年創設の私立学校で、現在、水本学園高等女学校として現役です。
旧岩治医院(明治45年築)。町の中央部に建つ、下見板張りの木造建築。窓の並んだ細長い建物は、まるで学校の校舎のようです。煉瓦状の腰壁は、実は木にペイントで描かれたものです。
旧大野織物共同組合事務所(昭和12年築)。現在、平成大野屋として飲食店・観光案内所などに活用されています。登録文化財。
中津軒。明治44年創業の洋食屋さんです。建物の外壁は新しくなっていますが、軒下などに古い建物の痕跡が見えます。
T2の菓子工房北丸ノ内店。大通りの角地に面したスパニッシュ瓦のかわいい建物で、古い建物かどうか迷いますが、丸みをもった入口部分が最近の建物ではないと思われます。
旧大門百貨店(昭和11年築)。アーケードの交差点角にあるパチンコ大門のスクラッチタイルの外壁に気付き、小路から見上げてみると、アールの付いたモダンな百貨店建築ではありませんか。
調べてみると、名古屋の丹羽英二建築事務所の設計による建物でした。
http://www.niwa-ae.com/ourworks/old_daimon.htm
百五銀行大門町支店(大正13年築)。旧四日市銀行津支店の向かいにあり、現在は建替えにより中央入口部分のみが保存されています。
旧四日市銀行津支店(大正11年築)。アーケードに覆われて全貌が見えません。現在、大門オーデンビルというテナントビルとして現役です。
吹上町で見かけた煉瓦タイルの蔵。煉瓦蔵かと思いましたが、どうもRC造煉瓦タイル貼りのようです。
旧伊勢神宮司庁庁舎(明治36年築)。伊東忠太の設計で、現在は神宮道場として使われています。
神宮館徴古館(明治42年築)。宮廷建築の多くを手掛けた片山東熊設計による、シンメトリーの堂々とした建物です。
旧皇学館大学本館(大正8年築)。平成19年に再移築・全面的改築し、皇学館大学記念館となっています。登録文化財。肥大化した唐破風の車寄せばかりが目についてなりません。
近鉄宇治山田駅(昭和6年築)。テラコッタで賑やかに装飾された高架駅とは思えない長い長い駅舎で、登録文化財に登録されています。
旧山田郵便局電話分室(大正12年築)。現在、フランス料理店ボンヴィヴァンとして活用されています。東京中央郵便局や大阪中央郵便局の設計者である旧逓信省営繕課の吉田鉄郎設計の建物で、登録文化財に登録されています。ちなみに、この建物の本局である旧山田郵便局は明治村に移築され、重要文化財に指定されています。
旧鳥羽小学校(昭和4年築)。RC造のこの建物は、港を見下ろす鳥羽城跡の高台に建っています。鳥羽小学校は2009年1月に新築・移転し、この旧校舎の保全・活用が検討されています。
旧那須写真館。明治35年に開業した志摩郡第一号の写真館とのことです。この下見板張りの建物自体は、戦後の建物でしょうか。
公民館。丁字路の突き当たりに建つ建物です。近所での聞き取りで青年団の建物だったとのことでしたが、立地といい、それ以前の用途があったと思えてなりません。
旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所(明治37年築)。島津家の経営していた鉱山の事務所の建物で、現在、磯庭園そばに移築され、レストランとして使われています。この日は、結婚式で貸切りになっていました。
旧島津興業吉野林業所(明治42年築)。当初、周囲の施設にあわせて建てられたお土産屋の建物と思っておりましたが、今回ちゃんと見てみると、細工のしっかりとしたホンモノの歴史的建造物でした。現在、磯工芸館という薩摩切子の販売所になっています。
旧鹿児島紡績所技師館(慶応3年築)。薩摩藩が、イギリスの近代技術を導入するために開いた集成館での、外国人技師のためのゲストハウスです。耐震問題のため、現在、建物内部への立入りが禁止されています。
岩崎邸(大正期築)。かわいいピンク色のハーフティンバーの洋館です。以前は通りからも建物を見ることができたのですが、敷地を切り売りしたのか、敷地角に新しいマンションが建っていました。
旧鹿児島県立第一高等女学校(昭和9年築)。現、鹿児島県立中央高等学校です。こちらも、コーナーがアールになった建物で、円形(?)の塔屋が付いています。
旧鹿児島県立第二鹿児島中学校(昭和5年築)。現、鹿児島県立甲南高等学校です。コーナーがアールで、ドーム状の塔屋の付いた特徴的な建物です。
旧鹿児島刑務所正門(明治41年築)。旧鹿児島刑務所は、司法省大臣官房営繕課の山下啓次郎設計による五大監獄の一つでしたが、昭和61年の移転にともない解体され、石造の正門だけがモニュメントのように保存されました。
旧大北海底電信中継所(明治4年築)。そろばんドックよりさらに4kmほど先にある、半分がコンニャク煉瓦で半分が天草石による不思議な建物です。まだ残っているか心配だったのですが、ちゃんと現存していました。
旧小菅修船所巻上げ機小屋(明治元年築)。「そろばんドック」の名で知られる古い造船所の機械室です。現存する日本最古の煉瓦造の建物で、「こんにゃく煉瓦」と呼ばれる、現在のJIS規格の煉瓦よりも薄い煉瓦で造られています。長崎市内の観光地からはちょっと離れた位置にあり、今回初めて訪れることができました。
三菱重工業長崎造船所史料館か? ここの史料館へは何度か見学を打診しているのですが、土日や祝日が休館のため、未だ希望を果たすことができません。史料館門と表示がありますので、造船所の外から見えるこの煉瓦造の大きな建物が史料館かとも思いますが、何だか違うような気もします。一度、造船所内へ入ってみたいものです。
三菱重工業長崎造船所の事務所棟。占勝閣を望む高台から見えた、階段室の塔屋にアールデコの飾りの付いたRC造の建物です。ドックに貼り付くように建っています。
占勝閣(明治37年築)。三菱重工業長崎造船所の迎賓館です。これまで、造船所に幾度か問い合わせをしましたが、非公開との回答で、見に行くことを諦めていました。しかし、今年WEBでビューポイントがあるということを知り、造船所付近を歩き回って、やっとドック対岸の高台から見ることができました。
飯盛酒造。煉瓦造の煙突(大正10年頃築)、及び麹室(大正末築)があります。伝建地区の入口に見える醸造所で、主屋や蔵を含め登録文化財に指定されています。
下見板張りの建物。旧浜郵便局の真向かいの建物です。ご商売は何だったのか、9分割の1階左側の窓で屋内がとても明るそうです。
旧浜郵便局(昭和12年築)。山中医院の並びに建つ下見板張りの建物で、現在、八宿公民館として使用されています。豊後森の旧三島郵便局とソックリです。当時、郵便局舎には標準仕様でもあったのかも知れません。
山中医院。煉瓦塀に促されて建物を覗き込むと、古げな現役の医院が現れました。HP「地域文博・高炉館」で庵田さんがおっしゃる通り、明治期の建物かと思われます。
肥前浜駅(昭和5年築)。長崎との県境に位置する長崎街道の宿場町で、伝建地区にも指定されている肥前浜町の最寄り駅です。特急は止まりません。カクカクとした車寄せが印象的です。
パブリックセンターカワイ。旧豊後森機関区への入口近くにある倉庫。事務所の細かい窓割りが気に入りました。
CCストアまるしょう。塚脇集落の商店街で見つけたドイツ壁の建物。左右の窓が非対称なのが不思議です。
白百合美容室。豊後森駅から南へ1kmほど行ったところにある、塚脇集落の商店街の店舗。道路の拡幅工事が行なわれており、周囲の店舗は真新しい建物である中、この美容院だけが古い面影を残しています。曳家をしたか、古い部材を使ったかではないかと思われます。
旧三島郵便局と同じ通りにある洋館。同じペイントで塗装されています。新しい建物かも知れません。
旧三島郵便局(昭和初期築)。豊後森駅より北へ2Kmほど行ったところに、豊後森藩の小さな城下町が表われます。その商店街の中ほどにある下見板張りの建物で、平成15年よりカフェLetrasとして活用されています。なお、写真の万国旗は、毎年5月に行なわれる「日本童話祭」の飾りつけです。
旧玖珠税務署(昭和9年築)。県立玖珠農業高校の旧正門前にあり、現在、玖珠郡教育会館として使われています。
旧豊後森機関庫(昭和9年築)。大分方面から日田へ向かう列車が豊後森駅へ着く直前、左手に見える往時の扇形機関庫です。小生にとっては、在りし日の旧小樽築港機関庫にもぐり込んでSLを撮影した思い出があり、とても懐かしい光景です。RCの縦柱は、ただの円柱ではなく、上部が漏斗型に広がっています。この手の扇形機関庫では、京都の梅小路機関庫が現役です。
小野屋農業倉庫事務所。旧日野医院を見学しての帰路、車窓から見えた洋館が気になって、大分から引き返して撮影した物件です。農業倉庫に挟まれた洋館の事務所は、結構各地で見かけます。
旧日野医院(明治27年築)。温泉地で有名な湯布院の隣町にある、近年まで現役だった擬洋風の医院建築です。以前から、ぜひ見に行きたいと思っていた物件でした。知りませんでしたが、平成11年に国の重要文化財に指定されています。この本館の他、隣接の大きな病棟、離れも重文です。
山田歯科。駅に近い川沿いに建つ、屋根の形の面白い建物。歯科の文字が消されている看板もあり、旧医院かも知れません。
あいあい傘。竹田の町では、なかなか近代建築に出会うことがでなかったのですが、ようやく見つけた結構本格的デザインの看板建築です。
桃の湯。撮影しようとしていたら、自転車に乗った人が真ん中に駐輪して入ってしまいました(笑)。
梅の湯。高山には、東京風の破風の付いた銭湯を多く見かけます。梅の湯は、残念ながら「しばらく休業」とのことです。
だんだんばたけ。伝統的な町屋の並ぶ高山の町で、下見板張りの洋館は目立つ存在だったと思います。
八広。商店街から横筋に入ったところにある質屋さん。重厚な煉瓦蔵(?)が、いかにも質屋さんの信用を示しています。
旧歯科医院(大正末築)。帰宅後調べてみると、小道さんのサイトに載っていました。
http://blog.goo.ne.jp/gookomichi/e/e9850b2194b40ec4cd3050301fb1fbc3
旧写真店。現在は、おもちゃのかわかみの店舗の一部になっています。中央のとがったアーチと、そのアーチが庇になっていて丸い電灯が取り付けられていることが面白いと感じました。
おもちゃのかわかみ。伝建地区の入口に位置する店舗建築です。2階の細かい窓割りが、とても印象的です。
レンガ館。元醸造所の煉瓦蔵だったようです。昨年春、近隣の火事があり、このレンガ館の外壁も煤けています。
オーダーの付いた店舗。現在、スーパーマーケットとなっていますが、旧金融機関ではないかと思われます。
天狗総本店(昭和11年築)。高山の近代建築といえば、この天狗の面のマークの付いている王冠のような装飾の建物が有名です。1階部分がとても綺麗になっていました。国の登録文化財です。
JR高山駅(昭和9年築)。約30年ぶりに訪ねた高山の町でしたが、昔通りの駅舎が迎えてくれました。近代的な建物の外観に比べ、非常に奥行きの狭い建物です。
正面左端に円柱のあるタイル貼りの店舗。円柱には窓も無く、階段室でも無さそうですので、階段状の上部も含め西洋のお城の城壁をイメージしたものかと思われます。
旧野呂電気。角地に建つ、コーナーの丸い建物です。金木では斜陽館ばかりに目が向きがちですが、少ないながら商店街に看板建築が残っています。
旧津島家新座敷(大正11年築)。太宰治の兄・文治氏の結婚新居として建てられた、斜陽館と渡り廊下でつながった別棟の建物でした。戦時中には、故郷に疎開した太宰親子が暮らした家です。一昨年より、初めて公開されました。
旧津島邸(明治40年築)。太宰治の生家です。昭和25年より「斜陽館」として旅館となっていましたが、平成8年に旧金木町(現五所川原市)が引き取り、現在は太宰治記念館「斜陽館」として公開されています。今年は、太宰治生誕100年ということで、金木の町中が太宰治一色です。
八角形の塔屋の付いた下見板張の洋館。駅前の再開発で、五所川原には近代建築が残っていないのではないかと心配していましたが、国道沿の駅から少し離れた地点でこの洋館を見つけました。真四角な2階建ての建物の上に、特徴的な塔屋が付いています。元々の用途は不明です。
青森銀行五所川原支店。五所川原駅前は再開発計画が進行中で、広い範囲で古い建物が一掃されつつあります。駅から数百メートルほど離れた国道沿に建つ、どっしりとした銀行建築です。
旧高橋接骨院。五所川原駅前にそびえる3階建ての建物で、近くに新しい建物で開業しています。
津軽鉄道本社社屋。津軽五所川原駅の隣にあり、左右対称で、中央アーチの中に社章が掲げられています。
旧下野煉瓦製造のホフマン式輪窯(明治22年築)。国内に残る4基のホフマン窯の一つで、国の重要文化財に指定されています。昭和46年まで煉瓦の製造を続けていました。下野煉瓦製造はその後シモレンと改名し、乗馬クラブの経営に転じますが、平成13年に倒産してしまいました。現在、ホフマン窯は野木町所有となっていますが、予算の関係からか修復工事も進んでいない様子です。
川部駅裏、川部和泉郵便局そばにある洋館。大きな屋根が列車からも見える、総人研ぎ仕上げの建物です。
泉町にある、万町交番前交差点そばの3棟続く下見板張りの洋館。旧医院ではないかと思うのですが、聞き取りできませんでした。
栃木市消防団第七分団ポンプ小屋。旧栃木町役場の手前、栃木市立栃木第二小学校の角にあります。
正喜屋。1階正面左側の大胆な改装は、まるでピロティのようです。耐震は大丈夫か、心配でもあります。3階のように見える部分は、フェイクでしょう。
永山電機。隣に新しい電機店の店舗が建っていますが、この看板建築の重々しさにはかないません。
理容若松。このカッコ良さはどこからくるのでしょう。水平を強調したラインや窓、角のアール、左端のクシ目のような細かい横線の装飾など。とてもモダンな建物です。
三角マークの付いた看板建築。空き店舗となっていますが、2階の窓の上に装飾がなされています。
表通りに面して建つ上げ下げ窓のある洋館。1階部分が大幅に改装されていますが、何の建物だったのでしょう。
大場医院。表通りから一本入ったところにある下見板張りの現役の医院です。近所には、他にも医院が多く集まっています。
関根家住宅店舗(大正11年築)。旧安達呉服店店舗と同じ通り沿いに並び建つ、登録文化財です。
舘野家住宅店舗(昭和7年築)。2階のベランダや2連・3連のアーチ窓が、旧道沿いの古い町並みの中で目立ちます。
栃木病院(大正2年築)。現役の病院です。久しぶりに見ると周囲の様子が変わり、住宅地になっていました。
旧栃木県立栃木中学校講堂(明治43年築)。校門の両脇に、記念図書館と向き合うように建つ現役の講堂で、登録文化財です。
栃木高校記念図書館(大正3年築)。塗装し直した朱色がちょっと派手すぎるかなとさえ思われる、同校自慢の建物なのでしょう。登録文化財です。
旧足利銀行栃木支店(昭和9年築)。以前見た時とすっかり印象が変わってしまいましたが、現在、飲食店として活用されています。
旧栃木町役場庁舎(大正10年築)。かつて栃木県庁のあった場所に建てられた建物で、現在、栃木市役所別館として現役です。
旧川崎銀行千葉支店(昭和2年築、平成6年部分保存)。この建物を解体してビルを建てる計画を覆し、鞘堂方式で2回の曳家を繰り返してほぼ元の位置に戻して保存されました。何本ものビルの柱がジャマではありますが。
旧神谷伝兵衛稲毛別荘(大正7年築)。浅草の神谷バーや牛久のシャトー・カミヤの創業者の別荘で、現在、千葉市民ギャラリーとなっています。
旧勧業銀行本店(明治32年築)。東京の麹町に建てられたこの建物は、その後、大正15年に京成電気軌道会社に売却されて習志野に移築、さらに昭和15年に千葉市に移築されて千葉市役所、そして昭和40年に千葉トヨペットの本社として稲毛海岸に移築され、現在も現役です。
旧逓信省検見川無線送信所(大正15年築)。吉田鉄郎設計によるモダニズム建築で、DOCOMOMO Japanによる「日本におけるDOCOMOMO135選」の一つに選定されました。現在、千葉市の所有で、保存方法について検討されています。
立正佼成会松阪教会南紀支部。旧役場とか学校、医院かと思っておりますが、いかがでしょうか。本町通りと交わる小路の途中にありました。
旧紀新銀行(昭和3年築)。本町通りの中ほどにある近代建築で、現在、西衣料品店の店舗になっています。
旧門司税関大里仮置場詰所(明治43年頃築)。煉瓦倉庫の立ち並ぶ海岸沿いの突端に建つ建物で、現在、和幸運輸株式会社の事務所として使われています。
旧鈴木商店大里製糖所(明治末期築)。鹿児島本線の線路沿いにそびえる4階建ての煉瓦建築で、関門製糖株式会社工場棟として現役です。
旧鈴木商店大里製糖所(明治末期築)。現在、関門製糖株式会社工場倉庫として現役です。海岸沿いの敷地内に、煉瓦倉庫が連続しています。
旧鈴木商店大里製糖所(明治末期築)。現在、関門製糖株式会社工場倉庫となっています。屋根を失ったのか、数棟をかまぼこ型の大きな屋根で覆い直しています。
旧鈴木商店大里製糖所(明治末期築)。現役の関門製糖株式会社工場棟で、国道沿いに煉瓦造が続々と連なっています。
旧鈴木商店大里製糖所(明治末期築)。煉瓦造4階建ての巨大な建物で、関門製糖株式会社工場棟として現役です。
旧鈴木商店大里製糖所(明治末期築)。現在、関門製糖株式会社工場棟として現役で活躍しています。
旧大里製粉所倉庫(大正期築)。現在、ニッカウヰスキー門司工場倉庫となっています。国道沿いに並ぶ煉瓦倉庫群は、とても印象的です。
旧鈴木商店大里製粉所倉庫(明治43年築)。日本製粉門司工場原料倉庫の後、現在は3棟のみが残され今後の活用が検討されています。ただ、急がないと老朽化が懸念されます。
旧模範工場桐生撚糸合資会社事務所棟(明治36年築)。現在、絹撚記念館として公開されており、桐生市指定文化財です。
Bell France。桐生の旧ロータリーの一角にある看板建築です。読めない字もあるのですが、「和田商店」と読めます。
最初、この建物を見かけたとき、正面の白い漏斗型のデザインに目が行きましたが、よく見ると上部右側が階段状の塔屋(?)があり、アールデコになっているではありませんか。
「昭和のレトロ食堂」さんも、気になる存在としてちゃんと取り上げておられました。
http://syouwa.blog54.fc2.com/blog-entry-284.html
北川眼科医院の向かい側にある下見板貼りの平屋。改装著しいのですが、元公共機関の建物ではないかと思われますがいかがでしょうか。
北川眼科医院(昭和12年築)。古そうな建物だと撮影しておいたのですが、調べてみるとやはり由緒ある建物でした。安田祥子・由紀さおり姉妹が、幼少時にここに間借りして住んでいたとのことです。
ブログ「昭和のレトロ食堂」さん
http://syouwa.blog54.fc2.com/blog-entry-126.html
金谷レース工業鋸屋根工場(大正8年築)。日本煉瓦製造製の煉瓦による、イギリス積みのノコギリ屋根の織物工場です。隣の敷地が寺院の墓地なのも驚きでした。
金谷レース工業事務所(昭和初期築)。スクラッチタイル貼り、円窓付きの登録文化財です。建物の前の棕櫚も、近代建築とセットの風景です。
旧桐生高等染織学校本館(大正5年築)。現在、群馬大学工学部記念館として大切に保存されています。
森合資会社事務所(大正3年築)。白いタイル貼り、緑青の銅板屋根や飾りが、蔵造りの町並みのアクセントとなっています。
旧北川織物工場事務所(大正5~10年築。昭和3年に洋風に改装)。左隣にのこぎり屋根の木造工場(大正5~10年築)が続いています。現在、無鄰館と呼ばれる芸術家集団工場となっています。
本町通りの看板建築。あっさりした四角い建物ですが、窓の上に2つのアーチと中央にダイヤの飾りが付いています。
旧矢野倉庫煉瓦蔵(大正9年築)。醤油の醸造業を行なっていた矢野商店の土蔵など11棟の倉庫群の中の煉瓦蔵で、現在、イベントスペース「有鄰館」として活用されています。
桐生倶楽部(大正8年築)。とにかく賑やかな建物です。桐生の大正時代が、どれだけ繁栄していたのかを物語ります。
上毛電鉄西桐生駅(昭和3年築)。JR桐生駅の北500mほどのところにある、かわいらしい駅舎です。
旧桐生市水道事務所(昭和7年築)。桐生織物協同組合北側の、道を隔てた敷地に立地しています。現在、桐生市立西公民館として使われており、登録文化財です。
松岡商店(昭和10年築)。桐生織物協同組合の斜向かいにある、円窓とスクラッチタイル貼りの建物。階段状のデザインで統一されています。
桐生織物協同組合(昭和8年築)。スクラッチタイル貼りで、縦の線の強調された、当時の流行を取り入れた外観デザインとなっています。
昨年末、愛媛県の八幡浜市保内の町を歩いた折、竹筋コンクリートの情報を得ました。昭和16年架橋の「旧和田橋」が、竹筋コンクリート造だったとのこと。残念ながらこの「旧和田橋」は、平成11年の台風で倒壊してしまい、現在は親柱と花崗岩の部材とでモニュメントとして展示保存されています。
竹筋コンクリート造の「旧和田橋」はどんな姿だったのか、竹筋コンクリートが使われていたのはどの部分だったのか、そして、倒壊する前から竹筋コンクリート造ということが知られていたのか等々、知りたいことばかりです。
ネットで検索してみると、岡崎直司さんのブログのコメントに、ちょっと出てくる程度です。「旧和田橋」について、もっと詳しい情報をお持ちの方、ぜひお知らせください。
どうも、現存の竹筋コンクリート造には、なかなか簡単には出会えないようです。
現在の和田橋
内之浦公会堂(昭和12年築)。保内の町から西に1kmほど行った集落にある建物で、登録文化財です。四角い陸屋根に見えますが、裏から見ると大きな瓦屋根の建物です。
美名瀬橋(昭和8年築)。この昭和ヒトケタ時代の橋の欄干は、全国的に連アーチのデザインになっています。
旧白石和太郎洋館(明治36年築)。現在、内部が一般に公開されています。近年の改修の際、屋根の鬼瓦に付着していた新聞の日付から、明治36年築と判明したとのことでした。
旧日進館事務室(明治後期築)。蚕の卵を生産する蚕種製造業の建物で、後に愛媛蚕種株式会社となり現在も操業中です。後方の第一蚕室、第二蚕室(大正8年築)と共に、登録文化財です。
旧藤井医院。旧相可町の中央部、三重県立相可高校の近くで見かけた物件で、道の向かいには新しい医院が開業しています。
車庫に使われている廃墟。アールの付いたコーナーや半円の妻(?)など、粘土で造形したような建物です。
土井本家(浜中屋敷)洋館(明治21年築)。ちょうど修復中で、近日中に足場を外すとのことでした。熊野街道側には、正門と石のアーチの通用門があります。
見世土井邸(忠兵衛屋敷)。林業で財を成した土井家の分家で、円窓のあるスクラッチタイル貼りのモダンな洋館です。
日本通運尾鷲支店。尾鷲駅前にある「日通物件」ですが、2階両端のアーチ窓がこの建物の魅力です。
真如院。駅に近い、町の中心部にある寺院です。神明宮、五十橿神社と同じ広い敷地内にあります。
下見板張りの個人宅。ちょっと洋風な玄関の庇がポイントですが、雪国にも関わらずなぜこんなに浅い庇なのでしょう。
旧中越銀行本店(明治42年築)。当初、町の中心部に建っていましたが、再開発計画によりチューリップ公園の一角に移築され、現在、砺波郷土資料館として活用されています。
旧大和富山店(昭和9年築)。現在は、空家となっています。昭和初期には、全国各地で競って百貨店が建てられました。
可部の町の中央で、街道がクランク状になっている角にある礎石。「可部貯蓄銀行」とあります。近所の方にうかがうと、火の見櫓の基礎とのことでした。クランクの奥には、かつては郡役所があったそうです。
シゲタ写真舘。JR可部線の終点である可部駅から約1kmほど北に進むと、街道沿いの可部の町が広がります。残念ながら、道路の拡幅工事で町の古い建物の多くが失われてしまいましたが、この写真館は曳家で保存されたとのことです。
旧授眼蔵図書館(大正8年築)。建築家吉田鉄郎が、東大在学中に設計した建物として有名です。吉田鉄郎は、のちに逓信省営繕課で東京中央郵便局や大阪中央郵便局の設計をした、日本のモダニズム建築家です。
旧富山県簡易農学校本館(明治36年築)。「巖浄閣」と命名され、現在、富山県立南砺総合高等学校福野高等学校の敷地内で大切に保存されています。国の重要文化財です。
旧小杉町役場庁舎(昭和9年築)。現在、竹内源造記念館として活用されています。
竹内源造は小杉町に生まれた鏝絵職人で、富山県を中心に、東京の帝国ホテルの貴賓室や大連の朝鮮銀行なども手掛けています。
「鏝絵の名人竹内源造ワールド」
http://www.genzou-world.net/
旧小杉貯金銀行本店(明治33年築)。土蔵造の銀行建築です。現在、小杉展示館として転用・公開されています。
旧小杉郵便局(大正13年築)。旧道に面して建てられた木造モルタル塗の建物です。拡幅工事により、周囲の建物は後退して建て直され、この建物の部分だけセットバックしていませんが、大丈夫でしょうか。
旧富山紡績井波工場塵突(昭和7年築)。当初、この高台のステージのようなモノは何なのだろうと思っていましたが、調べてみると「塵突」という紡績工場にツキモノの施設で、「糸くずや埃などを集中して廃棄する設備」(HP「近代化産業遺産 総合リスト」)とのことです。
瑞泉寺の門前町の看板建築。1階は改築されていますが、2階の窓を見ると、かつてどんな建物だったのかを想像してしまいます。
旧加越能鉄道井波駅(昭和9年築)。廃線後、井波町物産展示館として活用されているのですが、曜日のせいか、いつ行っても閉まっています。
洋館、洋風蔵のある家。井波から庄川へ向かうバスの途中で見かけ、教室風の建物が気になって歩いて戻って撮影しました。ご商売は、建築関係とのことでした。
木村産業(昭和4年築)。富山県内のRC造としては最初期の建物で、竹内源造の派手な鏝絵やアールデコのステンドグラスなど、過剰な装飾が満載です。
Gun Shop YONEMICHI。下見板張りのこの白い建物は、旧郵便局ではないかと思います。
石倉。黒磯駅前周辺を歩くと大谷石の石倉を多く目にしますが、この石倉には唯一、側面に装飾がありました。
仁愛会サロン。駅前通りが国道に突き当たる丁字路にある大谷石の平屋建て。入口のアーチや縦長の窓などが特徴的です。旧郵便局か、金融機関ではないかと思われます。
旧黒磯銀行本店(大正7年築)。登録文化財の物件で、現在、カフェ・ド・グランボワとして営業中です。
旧歯科医院か? 昭和61年に大洪水があり、復興計画により古い中心市街地は一掃されて、全く新しい町並みとなりました。そんな中で見つけた、ちょっとモダンな近代建築です。外観の全貌が見えませんが、玄関部分のアーチ、2階上部にめぐらせたタイルなどが見どころです。
宗運株式会社。阿武隈急行(旧丸森線)の宮城側の始発である槻木駅で、列車の接続待ちの間に町に出て見つけた物件。旧槻木郵便局ではないかと思われます。
サンコーホーム。この建物は、明らかに旧金融機関かと思われます。昭和30年代位の建物でしょうか。
お菓子のささもり。当初、新しい建物ではないかと考え撮影しなかったのですが、思い直して戻って撮影した建物です。
長屋事務所。角田町の総覧物件は、全てがすでに解体済でした。やっとこの建物を見つけたときは、角田の町を探し歩いた苦労が報われた思いでした。
旧明倫小学校(昭和30年築)。市側より、来年平成21年度中に解体の方針が示されています。
萩光塩学院(昭和30年築)。現役の円形校舎で、円形校舎としてはかなり早い時期の建物です。
旧小浜小学校(昭和34年築)。新しい敷地に新校舎を建て学校ごと移転し、今年の春、この円形校舎は廃校となりました。2つの円形校舎が渡り廊下で結ばれた、通称「めがね校舎」です。
こちらが東側の校舎。
こちらは西側の校舎。グランドに面しています。
NHKの連続ドラマ「ちりとてちん」で、主人公の母校としてロケ地になりました。
旧福島電燈(昭和2年築)。この建物の正面は、左右対称のこの写真の方向だと思うのですが、何故か中央に開口部がありません。
福島駅前の共同住宅。1階に店舗の入った建物で、大火や震災、戦災の復興や再開発に伴う物件かと思われます。
煉瓦倉庫。国道4号線沿い、福島県庁舟場町分館の裏にチラリと見え、近づこうとぐるりと回ってみたのですが、ブロック塀の内でした。HP「銀河放浪」にある、旧日赤倉庫ではないかと思われます。
宍戸理容所。正面中央上部の丸い看板が裏から見え、近づいてみると旧銀行の建物でした。マークを見ると、旧第百七銀行ではないかと思われます。
山形県長井市で開催された、2008年ショートフィルムコンテスト「ながい×じかん」に出品した作品です。この1年間に全国各地で撮影した「全国編」と、長井市内で撮影した「長井編」の2本で、それぞれ3分間のスライドショーになっています。
「まちかどの近代建築(全国編)」
「まちかどの近代建築(長井編)」
戸出の商店街を抜けたあたりで見つけた銭湯。入口上のガラスに書かれた銭湯の名が薄くなっていて読めず、現役かどうかも不明です。
沢田金物店。他の町でも、金物店は面白い建物が多いようです。正面左側に塔屋風の四角いものが付いています。
旧歯科医院。やはり、戸出の町は宝物を秘めていました。このピンク色のかわいい建物は、町の中央の銀行の隣に建っています。
城端線に乗ると、いつも気になっていたのが、戸出駅から見えるこの看板建築でした。今回、戸出駅に降り、戸出の町を歩いてみました。
旧福岡県公会堂貴賓館(明治43年築)。福岡県西方沖地震で被害をうけましたが、修復工事も終わり美しい姿を取り戻しました。
旧制福岡県立福岡中学校(昭和4年築)。現、福岡県立福岡高等学校です。こうして福岡の良質なRC造の公立学校の校舎を見ると、福岡には他にももっと沢山のRC造校舎があってもおかしくないと思います。
旧福岡市立福岡商業学校本館(昭和5年築)。昭和39年に私立東福岡高等学校に校舎・敷地が譲渡され、現在に至ります。校門横に工事計画の掲示が出ており、残念ながら近々解体の予定です。
売物件となっている看板建築。昭和14年の大火後、復興建築が建ったはずなのですが、あまり見当たりません。あるいは、アーケードの下にもっと隠れているのかも知れません。
十和田カトリック教会(昭和7年築)。ヒンデル設計。塔屋の屋根が途中で折れているあたりが、いかにもヒンデルらしいです。十和田市(旧三本木市)は、昭和4年と昭和14年の2度の大火があり、市街地の大半が消失してしまったとのことでした。
小高い代官山公園の入口に建つ建物。現在は生命保険会社の代理店となっていますが、おそらく集会所か何か公共的な建物だったのではないかと思われます。
大橋(昭和7年築)。飾り気のないコンクリート橋ですが、欄干のアーチがかろうじて時代の気分を現しています。
庭田茶店の並びに建つ旧映画館。映画看板の掲げられたであろう、通りに切り立つ壁は、まさに看板建築です。
とりまさ。田名部(現むつ市)の中心街も再開発が進み、この建物の向かい側は、大きな更地が広がっていました。
前郷のお屋敷町で、少々変わった塀を見つけました。のぞいてみると、派手な飾りの付いたポーチのある建物でした。主屋と別棟の構成は佐々木歯科医院と同じで、別棟は堂々とした洋館です。元々は、やはり旧医院だったのではないかと思われます。
佐々木歯科医院(大正10年築)。旧由利町(現由利本荘市)の城下町、前郷にある城郭のような医院です。正面の主屋、左側の木造3階建の養老閣、裏の文庫蔵、そして庭の小便所が、国の登録文化財に登録されています。
旧大湊ホテル(現鈴木誠作記念館)。タクシーの運転手さんに、大湊の近代建築といえばコレと勧められた建物です。一般非公開の建物で、塀をよじ登って撮影しました。正直なところ、ここに載せるかどうか迷ったのですが、この建物の違和感を多くの方と共有したくて掲載に踏み切りました。まるでCADで描いたままに再現したような彩色の出来です。平成7年の改修で創業時の姿に復元、平成9年にむつ市の有形文化財に指定され、平成19年に経済産業省の「近代化産業遺産」に認定されました。
大湊第一水源地堰堤(明治42年築)。海軍の水道施設として建設された日本最古のアーチ式ダムで、戦後は大湊町の水源として利用されていました。
旧大湊水交社(大正4年築)。海上自衛隊大湊地方総監部の基地内にあり、現在、北洋館として公開されています。
小嶋商店。木造下見板張の酒屋さんです。以前、恐山へ行くときに立ち寄った田名部の記憶とは、ずいぶん変わっていました。
ハト薬局。土蔵造りの見世蔵です。隣接する住宅には、ちょっと洋館っぽい、アーチ窓やポーチが付いています。
旧公民館か? 下見板張の2階屋が見えたので周囲を回ってみたのですが、全貌がつかめません。この建物の隣には公民館があり、その隣は新しい郵便局がありますので、あるいは旧郵便局かも知れません。
撮影時、この建物の用途がわからなかったのですが、今改めて見直してみると、どうも消防のポンプ小屋のようです。余所で見かけるポンプ小屋に比べ、間口の広い建物です。
出羽の冨士醸造元別館。坂道の途中で、道路から2m位高い位置に建てられています。隣には、酒林の下がった出羽の冨士醸造元の町屋や土蔵が建っています。
旧医院。HP「秋田フィールドワーク」では、今野邸となっています。お隣での聞き取りでは、院長さんは高齢で施設に入っており、現在は空家です。建物の老朽化が著しく、屋根が飛ばないようにロープで押さえている始末です。
旧矢島駅舎。由利高原鉄道の終着駅で、現在は隣に新しい駅舎が建っており、工事事務所となっています。旧矢島町(現、由利本荘市)は、生駒藩の城下町で、山間の小さな町です。
奈良組事務所。木造駅前通りに建ち、多分に旧高谷銀行本店と桜庭歯科の影響下にあると思われます。奈良組は、地元の建築会社です。
近代建築ではありませんが、青森県の旧木造町(現つがる市)といえば、この木造駅舎(平成4年築)を採り上げなければなりません。京都工芸繊維大学の中川理先生の著書『偽装するニッポン』で見たのか、都築響一著『ROADSIDE JAPAN―珍日本紀行』か、五十嵐麻理著『日本珍スポット100景』だったか、とにかく良くも悪くも、インパクトのある建物です。
地元の亀ヶ岡遺跡から発掘された国の重文の遮光器土偶(愛称「しゃこちゃん」)を、巨大化して取り付けています。叩いてみるとコンクリート製で、中は空洞ではなく充填されていました(足の部分以外は、あるいはハリボテかも知れません)。ウィキペディアによれば「以前は列車の発着に合わせて土偶の目を点滅させていた(「いらっしゃいビーム」)が、子供が怖がるため最近は自粛している。リクエストがあれば点滅可能らしい。」とのこと。
※なお、この「しゃこちゃん」は高さ17.3mとの記載もありますが、どう考えてもそれほど巨大ではないです。17.3mというと、6~7階建てのビルに相当しますから。2階建ての駅舎に付いているのですから、せいぜい7~9mくらいでしょう。
で、この「しゃこちゃん」ですが、五能線の列車の乗客からは全く見えないというのも、困ったものです。どうやら、町民向けに立っているようです。
それにしても、木造(きづくり)という地名は、検索には困ったワードです。木造駅舎は、各地の「もくぞう」の「えきしゃ」がヒットしてしまいます(笑)。
旧木造中学校講堂(昭和4年築)。戦後、青森県立木造高等学校の講堂となり、高校の移転後、中央公会堂講堂として現在も利用されています。
旧高谷銀行本店(大正初期築)。旧木造町(現つがる市)の商店街の中ほどに建つ登録文化財で、現在盛農薬商会倉庫となってます。弘前を中心に多くの近代建築を手がけた堀江組の施工で、名棟梁堀江佐吉の弟、堀江豊吉と三男、堀江竹次郎による建物です。
五能線の木造駅前に建つ桜庭歯科医院。現在は、やっていない様子でした。今年の7月、五能線に乗ったときにチラリとこの洋館が見え、今回木造の町を歩くことにしたのでした。
旧高宮病院(明治18年築)。福光町の郊外に建つ旧医院で、現在「福祉の家光龍館」として活用されています。
旧末広新地の洋館。小矢部川沿いに、大きな料亭を見つけました。その並びに建つアーチ窓の洋館です。
旧救世軍横田小隊会館(大正12年築)。現横田相愛教会です。旧横田町(現奥出雲町)の旧道沿い中ほどに建つ、登録文化財です。
旧八川郵便局(昭和13年築)。旧横田町(現奥出雲町)の八川地区にある建物で、登録文化財です。いかにも郵便局らしい郵便局舎です。
広島電鉄千田町変電所旧発電棟(大正元年築)。旧ボイラー棟と並んで建っています。入口部分の装飾が見どころです。
広島電鉄千田町変電所旧ボイラー棟(大正元年築)。爆心地から1.9kmでしたが、倒壊を免れました。現在も現役の頼もしい建物です。
旧広島文理科大学(昭和6年築)。爆心地より1.4kmの地点。現在、敷地は公園となっていますが、建物の今後は未定とのこと。何とか有効に利用して欲しいものです。
たまたま数日前に知ったのですが、今月、民事再生法の申請をした株式会社アーバンコーポレーションが、この広島大学本部跡地の再開発事業を受注しており、再開発計画は白紙に戻るともいわれています。
広島大学本部跡地の再開発計画
http://www.urban.co.jp/news_contents.html?id=725
福屋百貨店(昭和13年築)。爆心地から710mの地点で全焼しましたが、現在も福屋百貨店として同じ用途で使われています。古い百貨店の建物は、カッコイイと思います。
旧三井銀行広島支店(大正14年築)。爆心地より360m。アーケードで覆われていますが、現在、アンデルセンというベーカリーが活用しています。
旧日本銀行広島支店(昭和11年築)。爆心地から380mですが、外観はそのまま残りました。解体話もありましたが、保存運動の末、現在、ギャラリーとして活用されています。
旧大正屋呉服店(昭和4年築)。爆心地から170m、上空580mの地点での原爆炸裂ですので、ぼぼ真上からの被爆でした。現在、広島市平和記念公園レストハウスの名で、無料休憩所と観光案内所として活用されています。
旧広島県物産陳列館(大正4年築)。いわゆる原爆ドームですが、建物というよりモニュメントとなっています。在りし日の姿を見ると、思いのほか両肩の張った四角い建物という印象です。
広島電鉄中央変電所。相生橋の手前で、寺院の奥に見かけました。被爆建物リストには載っていないので戦後の建物のようですが、どうも怪しい物件です。
旧広島中央電話局西分局(昭和12年築)。爆心地から1.1kmにある、山田守設計のモダニズム建築です。最近までNTT広島西営業所として使われていましたが、現在は空家です。
旧己斐調整場送水ポンプ室(昭和7年築)。爆心地から2.3kmの、総タイル貼、アーチ多用の建物です。
旧日本麻紡績給水塔(大正8年築)。爆心地から2.8kmの地点にある煉瓦造の給水塔(の台座部分)です。
観光橋(昭和12年架橋)。爆心地から2.6kmの地点にある被爆橋で、八幡川に架かる小さな橋です。
勝利湯。腰回りにスクラッチタイルを貼った銭湯です。現役(のはず)ですが、行った日は煙突から煙も見えず、どうも休業のようでした。
宇品で見つけた洋館。旧医院ではないかと思われます。県立広島病院の南側には、洋館付住宅が多く残っています。
旧広島水上警察署(明治42年築)。その後、宇品警察署、広島港湾事務所として使われ、現在は空家です。爆心地から4.6kmの地点で、木造建築が現存していることに驚かされました。老朽化も激しく、何とか有効に活用して保存したい建物です。
電車通りに建つ看板建築。外壁がリフォームされていますが、コーナー上部の鏝細工の箇所のみ、表面を覆わず残しています。
旧中国配電南部変電所(昭和18年築)。戦時下に、このようなアールデコデザインの建物が建てられたことに驚かされます。現在、E.R.E宇品御幸ビルという名称になっていますが、空家のようです。
旧広島高等学校講堂(昭和2年築)。現在、広島大学附属中・高等学校講堂として使用されており、先年、登録文化財に登録されました。
旧広島陸軍被服支廠(大正2年築)。当時、広大な敷地に多くの倉庫が建てられていましたが、第10番庫~13番庫の4棟が現存しています(南北に一直線に3棟、南端東西に1棟)。RC造煉瓦貼りで、長さ94m、高さ17mの建物3棟が一直線に並ぶ様は壮観です。戦後は、南北の3棟が広島県、南端東西の1棟は国の機関などに使用され、現在はいずれも空家となっています。
皆実町中通り商店街の中ほどにある洋館。大きな円窓を見ると、ただの住宅とは思えません。この建物のある通りは、旧被服厰の正門から真っ直ぐに続く「被服通り」と呼ばれた通りです。
旧常磐グリース製造所倉庫(大正2年頃築)。南区大洲の猿猴川のほとりに残る被爆建物で、現在、三戸商店倉庫となっています。被爆当時は、日本特殊グリース倉庫でした。
被爆建物である旧第一高等小学校(現比治山中学校)近くの洋館(旧医院か?)。昭和初期の被爆建物ではないかと思われます。南区の猿猴川と京橋川とにはさまれたこの地区は、比較的爆心地に近い(2~3km)にも関わらず、比治山の山陰になったことで多くの建物が残っていたのではないでしょうか。ただ、現在この周囲の地域は大規模な区画整理が進められており、更地が広がっています。
旧青森営林局庁舎(明治41年築)。青森市街から少し外れたところに建ち、青森大空襲の被害から逃れた建物です。現在、青森市立森林博物館として公開されています。
近藤歯科医院(昭和2年築)。路地に入ったところで見つけた、黒と白の塗装が特徴的な登録文化財です。
読書クラブ。「JRC」のロゴの付いたこの大きな本屋さんの建物は、元々は何の建物だったのでしょう?
上石商店(大正初期築)。旧秩父国際劇場の隣に建つ、ステンドグラスがふんだんに付いた贅沢な建物です。
旧秩父国際劇場(昭和初期築)。大規模な映画館でしたが、現在は上石建材の倉庫として活用されています。
旧大月旅館別館(大正15年築)。小池煙草店の向かい側に建つアールデコの建物で、登録文化財。
小池煙草店(昭和9年築)。この建物を見るために、秩父に行きました。秩父神社への参道の途中で、この建物のある交差点の三隅が登録文化財です。
4年ぶりの宮崎駿監督によるジブリ映画『崖の上のポニョ』が、来週7月19日より公開されます。作品の出来も気になるところですが(笑)、小生としては、どうしても主人公の家である「崖の上の家」が気になります(爆笑)。
http://www.ghibli.jp/ponyo/
イメージアルバムのジャケット画にもなっている「崖の上の家」ですが、何かモデルになった家でもあったのでしょうか。NHKでやっていた宮崎駿監督のドキュメンタリーでは、広島県福山市の鞆ノ浦で構想を練っており、海を見渡す崖の上の家がお気に入りだったとか。ただし、その家は純和風の家で「崖の上の家」とは全く似ていません。
http://swan.srv7.biz/
「崖の上の家」を見て、小生が似ていると思ったのは、昨年、愛知県犬山市の明治村に移築復元された「旧芝川又右衛門邸」です。
http://www.meijimura.com/visit/s68.asp#a01
あるいは、大阪府堺市の「旧是枝近有邸」とか。
http://www.city.sakai.osaka.jp/kyoiku/_syougai/_kyouiku/bunkazai/koreeda.html
「崖の上の家」は、まあ、普通の2階屋ではありますが、崖の上にそびえ建っているからでしょうか、階高が高いように感じられます。総2階建てで、出窓があったり、テラスがあったりするところが、洋館っぽい感じです。
皆さんにとって「崖の上の家」は、どの家をイメージされることでしょうか。
岡崎市水道局六供浄水場ポンプ室(昭和8年築)。タイル貼りの艶やかな曲線の外観が美しい建物です。
岡崎市水道局六供浄水場配水塔(昭和9年築)。岡崎の町を見下ろす小高い丘の上にそびえる、現役の配水塔です。
風月堂本店。風月堂といえば、和菓子屋さんでしょうか。1階店舗は現在、店子に貸し出されているようです。
このところ小林多喜二の『蟹工船』が売れに売れ、新潮社では古い文庫本では異例の2万7000部の増刷をかけたということがニュースになっていました。
小林多喜二といえば、小樽生まれの小生にはなじみ深い作家です。小樽にゆかりのある作家といえば、石川啄木、伊藤整、そして小林多喜二と、だいたい相場が決まっていました。いずれも市内に文学碑があり、ガイドブックには必ず載っています。小林多喜二の文学碑は、小樽港を見下ろす旭展望台にあり、労働者の首の付いた煉瓦色の文学碑は、子ども心に怖かった思い出があります。
http://www.otarucci.jp/kankou/bunka/bungakuhi/bungaku002.html
旧北海道拓殖銀行小樽支店(大正12年築)
旧三菱銀行小樽支店(大正11年築)
旧第一銀行小樽支店(大正13年築)
旧三井銀行小樽支店(昭和2年築)
小林多喜二は、生まれは秋田県の下川沿村(現大館市)ですが、4歳のときに小樽に渡り、大正13年に小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業後、市内の北海道拓殖銀行小樽支店に勤務します。現在「ホテルヴィブラントオタル」となっている旧北海道拓殖銀行小樽支店の建物は大正12年に建てられましたので、新築翌年の銀行の建物で勤務していたことになります。なお、この拓銀のある交差点には、大正11年築の旧三菱銀行小樽支店、大正13年築の旧第一銀行小樽支店が、また拓銀の並びには昭和2年築の旧三井銀行小樽支店の建物が現存しています。小林多喜二が勤務していた頃は、ちょうど小樽の銀行の新築ラッシュだったのです。
昭和4年に『蟹工船』が発表。同じ年に発表した『不在地主』が原因で拓銀を解雇され、翌年、小樽を離れ、東京に移り住みます。そして、昭和8年に特高に逮捕され、築地警察署内での拷問により獄死します。
今、大ヒットしている小林多喜二の『蟹工船』ですが、小生は今から30年くらい前、中学生のときに読みました。小生の感想としては、ちょっと読みにくい、粗削りな作品という印象があります。小林多喜二の『蟹工船』よりも、葉山嘉樹の『海に生くる人々』のほうが、読みやすく、小説としても完成していると思いました。ちなみに、小林多喜二は、葉山嘉樹の『海に生くる人々』を読んで『蟹工船』の執筆を決意したといいます。
小林多喜二の『蟹工船』を読んだ方は、ぜひ、葉山嘉樹の『海に生くる人々』や『セメント樽の中の手紙』、徳永直の『太陽のない街』なども読んでみてほしいと思います。
なお、少々時代が下りますが、小樽の映画館の数は、ピーク時には23館もありました(昭和30年~35年頃)。当時、小樽市の人口は約18~9万人だったので、「小樽は人口比で8000人に一館の映画館を持つ、北海道随一の映画館のまち」でした。大正末には、小樽には10を超す映画館があり、小林多喜二の日記には、小樽の映画館で見た映画の感想などが綴られているといいます。
また、小樽の銭湯の数も、ピーク時(昭和40年頃)には72軒もあったといいます。同じ町内に何軒も銭湯があるという状況でした。今では、銭湯の数は20軒ほどになっていますが、町の規模からすると、今でも小樽は銭湯の多い町です。
理容ヨシダ。隣のスーパーヨシザワで、甘い金時豆の赤飯についてお聞きしたご婦人が、この理容ヨシダの方でした。
ぷちキャバROSSANA。雷紋の付いた看板建築。地方都市には、お水系の近代建築も結構多いです。
スナックラカン。高遠城下の裏通りで見つけた建物。元は何の建物だったのか、見当もつきません。
平成8年からスタートした国の登録文化財(登録有形文化財)制度ですが、登録総数はすでに7000件を越え、全国的に制度が定着してきたように思われます。海外の事例に比べれば、まだまだ登録数はケタ違いに少ないのですが、少なくとも登録数は着実に増えています。
さて、官報にときどき「登録抹消」の告示が出ることがあり、建物が火事になったのか、解体されてしまったのかと心配になることがありました。実際には、市町村や都道府県、国の重要文化財に指定されること(格上げ)で、登録文化財の登録が抹消される例が多いのですが、今までその実態を掴めずにおりました。
今日、たまたま文化庁のHPで、「登録の抹消について」というページを見つけました。
http://www.bunka.go.jp/bunkazai/shurui/touroku_yukei_masshou.html
このページの情報によれば、平成19年12月5日現在、登録文化財の抹消総数は145件、そのうち、焼失や解体などによる抹消は44件とのこと。この数字、多いのか、少ないのか。小生の感想では、これは予想外に多いと感じました。
小生のHPに登録文化財のリストを公開しておりますが、この抹消情報も加えることにしたいと思います。
(文化庁の方にお会いする度に、登録文化財の抹消理由を明らかにして欲しいとお願いしていたのですが、これで少しは安心できます。)
西日本商事ビル。この建物も古いものか迷いましたが、船のイメージを持ち、水平を強調した横一列に並んだ窓などから、戦前の建物ではないかと思われます。
長崎銀行佐世保支店。アーケードの中にあり、少々迷いましたが、コーナー部分や窓回りを見るとやはり古い建物ではないかと思われます。
旧佐世保水交社(明治38年築)。平成9年に、海上自衛隊佐世保史料館として後方の高層棟の一部として公開されています。
旧海軍佐世保鎮守凱旋記念館と道を挟んだ向かい、旧佐世保海軍偕行社水交社の並びにある事務所。
旧海軍佐世保鎮守凱旋記念館(大正12年築)。現在、佐世保市民文化ホールとなっています。国の登録文化財です。
カトリック三浦町教会(昭和6年築)。「戦時中は軍の命令により空襲を避ける為に外壁に黒いコールタールを塗らされ黒い教会となりましたが、佐世保大空襲の時も全く被害を受けず、現在でも建築当初の姿を保っている」とのこと。
大名の裏通りで見つけた洋館。隣の坂本内科と関係のある建物ではないかと想像します。外壁は厚く塗装し直されていますが、窓や屋根などを見ると、確かに古い洋館です。
日本基督教団福岡警固教会(昭和4年築)。設計者中村鎮考案の「中村鎮式コンクリートブロック(鎮ブロック)」による新工法の建物です。
修猷館高校旧正門。建物に古いものはないか見回しましたが、残っているのはこの石の旧正門だけでした。篆書の書体が素晴らしいです。
旧西南学院高等学校講堂(大正10年築)。ヴォーリズの設計で、市指定有形文化財。改修が終わり、現在、西南学院大学博物館として公開されています。
旧徳永洋品店(昭和初期築)。千代の園酒造倉庫を経て、現在、菊池川流域情報交流会館「しびんちゃ館」として公開されています。看板を外すなど、大分改修されている感じです。
みずもと。詳細不明ですが、数年前のパンフレットには「飲食館みずもと」と記載されています。隣接する旧天聴酒造関係の建物ではないかと思われます。
八千代座(明治43年築)。平成13年に大改修工事が終わり、すっかり美しい建物になりました。国重要文化財です。
熊本市役所古京町別館。以前から気になっていた建物で、旧軍の建物かと思っていました。戦後、家庭裁判所や博物館の分館としても使われていたようです。県や市、官庁の庁舎といった施設だったのではないかと想像しますが、詳細不明です。
旧三菱合資会社唐津支店本館(明治41年築)。県指定重要文化財に指定されており、唐津市歴史民俗資料館なのですが、長らく休館中です。もう、5年以上休館が続いています。ウワサでは、フェリー埠頭付近に移築の計画があるとか。
炭鉱経営で財を成した田代政平の別荘(明治39年頃築)。旧高取邸と同じように、入口右側に洋館の応接間があります。昭和8年頃より料亭綿屋となり、現在は旅館綿屋として使用されています。
旧高取邸洋館。炭鉱で財を成した高取伊好の旧宅で、昨年改修工事が終わり一般公開されています。国の重要文化財。この洋館は、玄関脇にある応接間です。
越生織物会館(昭和5年築)。越生といえば「越生梅林」くらいしか知りませんでしたが、こんな立派な建物があったとは。老朽化により近く解体の予定です。解体を前に5月11日まで一般公開が行なわれ、小生も最終日に見学させてもらいました。2階は80畳敷の畳の大広間で、地域の公会堂的な使われ方をしていたそうです。老朽化とのことですが、確かに雨漏りがしてその影響でところどころ傷んではおりますが、まずは屋根さえ直せば後は少しずつ時間をかけてでも補修を続けていくことは可能だと思います。こうした建物の保存問題の際はいつもそうなのですが、修復には何千万円もかかるので保存を断念といった話になるのですが、建物を残すという意志さえあれば、少ない費用でも少しづつ直していけば良いのです。建物の価値が正当に評価されていないということなのでしょう。残念でなりません。
(9,954歩)
外壁や窓が新しくなっていますが、屋根の破風を見るとタダモノではない建物です。旧医院ではないかと思われます。
(10,697歩)
豊田歯科医院。大正から昭和初期にかけての、各地でよく見られる典型的なハーフティンバーの医院建築です。
(11,136歩)
通潤橋(嘉永7年(1854年)築)。熊本交通センターよりバスで約2時間ほど揺られた、旧矢部町にある石橋。対岸に農業用水を渡す水路橋です。
(10,647歩)
津山福音ルーテル教会。古い街道沿いですが、周囲がすっかり更地になってしまっています。
(12,422歩)
谷医院。コーナーにある入口の逆錐型の柱、ぐるりと廻った2階の窓など、モダンな建物です。
(36,823歩)
江見写真館(昭和4年頃築)。写真は西日で真っ白ですが、1階の半円筒形の部屋がモダンです。
(10,106歩)
東津山駅前通りが出雲街道と突き当たる丁字路にある事務所。よく見ると、入口部分にちょっとした細工があります。
(11,465歩)
旧団体事務所。路地を覗くと何となく気配を感じる建物が見えて、前まで進みました。土蔵風ながら両開きの窓が並んでいます。お住まいのご婦人にうかがうと、終戦後、表通りに建っていた旧団体事務所の建物を曳家して住宅にしたのだとか。
(10,627歩)
つちや写真館。出雲街道の一本隣と中島病院のある道との丁字路に建っています。
(10,815歩)
中島病院旧本館(大正6年築)。まちづくりの情報発信拠点として、活用・公開が予定されています。
(10,551歩)
旧津山中学校本館(明治33年築)。現在の岡山県立津山高等学校構内にあり、国の重要文化財に指定されています。
(10,240歩)
旧津山市役所庁舎(昭和9年築)。現在、津山郷土博物館として活用されています。
(11,501歩)
津山基督教図書館(大正15年築)。桜庭駒五郎の設計と聞いて、どこかで聞いた名だと思ったら、弘前で多くの建物を建てている棟梁でした。
(22,171歩)
旧陸軍第10師団兵器庫(明治39年築)。現在、姫路市立美術館として活用されています。
(35,439歩)
旧宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場(明治44年築)。現在、広島市郷土資料館として活用されています。
(12,401歩)
旧門司税関(明治45年築)。現在、ギャラリーや休憩所として活用されています。
(10,668歩)
旧大阪商船門司支店(大正6年築)。現在、海事・イベントホールとして活用されています。
(8,829歩)
旧九州鉄道本社(明治24年築)。現在、九州鉄道記念館として活用・公開されています。
(9,158歩)
旧妹尾銀行津山東支店(大正9年築)。昭和48年まで中国銀行の支店として使用されていましたが、現在は津山洋学資料館として公開されています。
(-歩)
旧十七銀行直方南支店(大正6年築)。展示スペース「アートスペース谷尾」として転用・活用されています。
(-歩)
4月8日より京都国立博物館で、特別展 没後120年記念「絵画の冒険者 暁斎 Kyosai-近代へ架ける橋」が始まりました。
暁斎とは河鍋暁斎のことで、幕末から明治にかけて活躍した日本画家です。河鍋暁斎と近代建築の関係で言えば、日本の近代建築の父であるコンドルが暁斎に弟子入りして日本画を学び「暁英」という画号を授かっており、暁斎の臨終も看取っています。さらに、当前村記念博物館としては、河鍋暁斎が江戸本郷の狩野派絵師前村洞和の弟子であったことも見逃せません。
これまで河鍋暁斎の大規模な展覧会は開催されておらず、今回の特別展では海外からの里帰り作品や未公開作品なども多く、他には巡回しないというのですので、これは見に行くしかありません。
来週の土曜日、4月19日に、大阪の天満屋ビル「ハaハaハa」さんで開催中の「まちかどの近代建築写真展」撤収の行きがけに、暁斎展を見てこようと思っています。夜行バスで行くことになりそうです。
京都国際マンガミュージアムでも、特別展「明治日本のギャグマスター 暁斎漫画展」をやっており、こちらも見なければ。両方を半日で見るのは無理そうですので、やはり泊まり掛けで行くしかないかナ。
暁斎は速筆・早描きで多作な人でしたので、各地で掛け軸や額を見ることがありますが、今回のような大きな会場で一堂に会して見ることのできるチャンスはなかなかありません。また、今回の特別展は、埼玉県蕨市にある「河鍋暁斎記念美術館」所蔵のものが大半なのですが、これまで直接見たことのないコンドル所蔵だった里帰り作品に大いに期待したいと思います。
特別展覧会 没後120年記念
絵画の冒険者 暁斎 Kyosai -近代へ架ける橋
・会期:2008年4月8日(火)~5月11日(日)
・休館日:月曜日(ただし5月5日は開館)
・開館時間:午前9時30分~午後6時 金曜日は午後8時まで
(入館は閉館の30分前まで)
・会場:京都国立博物館 (東山七条)
京都国際マンガミュージアム特別展
明治日本のギャグマスター 暁斎漫画展
・会期:2008年4月8日(火)~5月11日(日)
・休館日:水曜日(祝日の場合は翌日)
・開館時間:午前10時~午後8時
(入館は閉館の30分前まで)
・会場:京都国際マンガミュージアム2階 メインギャラリー
国立京都博物館
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html
京都マンガミュージアム
http://www.kyotomm.com/
河鍋暁斎記念美術館
http://www2.ocn.ne.jp/~kkkb/Kyousaij.html
※コンドルが書いた河鍋暁斎の伝記は必読です!(岩波文庫)
小生の故郷である北海道では、金時豆の甘納豆のお赤飯が普通であるということは、結構有名だと思います。食紅でもち米をピンク色に染めた、甘いお赤飯です。昨年末、『どさんこソウルフード』という本も出て、北海道では話題になっていました。
さて、お赤飯に小豆(やササゲ)ではなく金時豆を使うのは、北海道と青森など東北地方の一部と認識していたのですが、かつて沖縄に旅行に行ったおり、名護の博物館に金時豆のお赤飯が展示してあり、驚いたことがありました。柳田國男ではありませんが、「蝸牛考」のように周辺部に同じような文化が残っているのではと考えたりしました。まあ、北海道の甘納豆赤飯は、戦後に料理研究家が広めたという話も聞きますので、それほど古い文化でもないのですが(昭和20~30年代に札幌の光塩学園女子短大の南部明子先生考案だということですが、これはもしかしたら、甘く煮た金時豆を使う代わりに、甘納豆を使うというアイデアだったのかも知れません)。
先日、長野県の伊那市へ行ったおり、スーパーの惣菜コーナーで金時豆のお赤飯を発見しました。しかも、小豆のお赤飯は一切置いておらず、金時豆のお赤飯だけが並べてあります。驚いて、近くにいた買物中のご婦人2人にお聞きすると、この地方では普通、この金時豆の甘いお赤飯を炊くとのこと。「蝸牛考」説は、吹っ飛びました。
伊那地方だけの習慣かと思っていると、長野市出身の職場の同僚の家でも、金時豆のお赤飯を食べるとのことで、どうも長野県全域で広く一般化しているようなのです。長野での金時豆のお赤飯の話があまり出てこないのが不思議ですが、地元ではそれが普通の赤飯であると考えているので、あえて関心を呼ぶテーマではないのかも知れません。北海道の場合、北海道以外の地域から出張や転勤で来る人が多く、変わった食べ物として意識されたのかも知れません。
そもそも、金時豆のお赤飯の起源は長野・山梨地方であって、北海道開拓とともに北海道に渡った食文化だという、新しい仮説をたててみました。この仮説は、地域分布的にも理にかなっているような気がします。ちなみに、うちの母方の祖母が山梨県の出身で、北海道に開拓に渡った人ですので、話がヤヤコシイのですが……。
あるいは逆に、北海道開拓民の里帰りと共に、北海道の食文化である金時豆のお赤飯が、長野・山梨地方にもたらされたという逆流入説も、成り立つかも知れません。この仮説の場合、北陸地方や東北地方南部にも、金時豆のお赤飯がなければなりませんけれど。
うちの地方でも金時豆のお赤飯を食べるよ、という情報を、ぜひお寄せください。
日経新聞の「食べ物新日本奇行」というページに、アンケート調査に基づく記事が出ていました。
http://weekend.nikkei.co.jp/kiko/20030319s863j000_19.html
名鉄岩倉変電所(明治45年築)。愛知県岩倉市から博物館明治村に移築された建物です。
(10,421歩)
東京駅警備巡査派出所(大正3年築)。東京駅前から博物館明治村に移築された建物です。
(10,076歩)
金沢監獄正門(明治40年築)。山下啓次郎設計で、金沢から博物館明治村に移築された建物です。同じ山下啓次郎設計の長崎刑務所正門と似たデザインです。
(11,858歩)
工部省品川硝子製造所(明治10年頃築)。登録文化財に登録されている、東京の品川から博物館明治村に移築された建物です。
(10,289歩)
菅島燈台附属官舎(明治6年築)。国の重要文化財に指定されている、三重県鳥羽市菅島町から博物館明治村に移築された建物です。
(26,449歩)
京都七條巡査派出所(明治45年築)。京都駅に近い七条通から、博物館明治村へ移築された建物です。
(25,934歩)
聖ヨハネ教会堂(日本聖公会京都五條教会)(明治40年築)。国の重要文化財に指定されている、京都市の河原町通五条から博物館明治村に移築された建物です。ガーディナー設計で、1階が煉瓦造、2階が木造という、小浜教会と同じ構成となっています。この教会堂が京都の町に建っていた姿を思うと、明治村への移築は何とも複雑な思いです。
(10,934歩)
神楽坂のアユミギャラリーの名物番頭さん(笑)だった渡邉義孝さんから、個展の案内をいただきました。独立され、風組・渡邉設計室を開設されており、また、近代建築探訪MLの仲間でもあります。
今回の個展は、世界遺産をめざす五島列島の教会群のスケッチで、昨年秋には長崎市内で開催され、今回は現地の新上五島町での開催です。五島列島か。行きたいナァ。20年くらい前に一度行ったきりです。いつか、五島列島の教会めぐりをしたいと思っています。
「長崎から世界へ 祈りの空間を描く-渡邉義孝水彩画展-」
会期:2008年4月12日(土)~19日(土)
開館:9:30~17:30(最終日14時まで)
会場:有川港多目的ターミナル鯨賓館ロビー
〒857-4211 長崎県南松浦郡新上五島町有川郷578-36
電話:0959-42-0180 入館無料・会期中無休
共催:鯨賓館・上五島歴史と文化の会・新上五島町世界遺産推進室
こちらは、昨年秋の長崎市内での個展の様子
http://homepage3.nifty.com/w_yoshi/ak/ngsk/exb.html
柘植駅旧ランプ小屋(明治23年築)。「日本赤煉瓦建築番付」の前頭として掲載されています。
(9,954歩)
旧本庄商業銀行倉庫(明治27年築)。現在、ローヤル洋菓子店の店舗・工場として活用されています。こうした食品工場への転用例は、珍しいのではないでしょうか。近代建築転用の成功事例として、大いに評価したいと思います。改めて見ると、隣町の岡部農業協同組合の建物と似ています。
(11,317歩)
旧岡部農業協同組合。「日本赤煉瓦建築番付」で前頭に掲載されている建物ですが、どう調べても情報が得られず、深谷市教育委員会(岡部町は深谷市と合併)に問い合わせ現存を確認、そして今回やっと訪ねることができました。窓が割れ、老朽化も著しい状況ですが、本格的な煉瓦建築であり、ぜひ保存・活用すべき物件です。
仲間うちでは「カッパの顔」だと評判だったのですが、いかがでしょうか(笑)。
追記
「日本近代建築総覧」によれば、この建物は、大正4年築の旧岡部村役場とのことです。
(8,788歩)
白鳥会館(明治22年築)。日本赤煉瓦建築番付に「小浜旧桑原薬種店」として前頭で掲載されている建物です。
日本聖公会小浜聖路加教会(明治30年築、昭和6年2階増築)。現、小浜聖ルカ教会。1階部分は煉瓦造でJ.M.ガーディナーが、2階増築部分はJ.バーガミニーの設計と言われています。
旧高岡市水道局第3源井上屋(昭和6年築)。現在、清水町水道公園内で清水町配水塔資料館として公開されています。
旧大分銀行日田支店(大正5年築)。以前訪れたときには濱田耳鼻咽喉科医院でしたが、平成13年に「隈まちづくりセンター黎明館」となり活用・公開されています。
旧三十四銀行姫路支店(大正6年頃築)。煉瓦造のこの建物は、今井内科医院旧館として現役です。
昨日、埼玉県川口市の蔵・浜田さんを会場に、「まちかどの近代建築写真展 IN 川口」がスタートしました。毎回、会場ごとに展示スペースの状況が違うため試行錯誤の連続ですが、今回は展示パネルを屏風状にしてみたりしてみました。写真を見るのには大変ですが(笑)。1週間の会期ですが、ぜひお立ち寄りください。
まちかどの近代建築写真展 IN 川口(第13回)
(「KAWAGUCHI39ART2008」関連企画)
会期:2008年3月22日(土)~3月30日(日)
時間:10:00~17:00
(但し、3月22日(土)は13時から、30日(日)は16時まで)
会場:蔵・浜田 埼玉県川口市本町1-11-24
TEL:048-222-2219(浜田接骨鍼灸院:※会期中の問い合わせ先)
主催:まちのこし集団 かわぐち塾
企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:近代建築探訪メーリングリスト
豊石神社境内の煉瓦蔵。正面開口部の周囲の石材は、当初からのもののようですが、上部のアーチの意味がわかりません。また、両側面上部の十字型の穴も、耐火性に問題があるように思われます。
旧カブトビール半田工場(明治31年築)。丸三麦酒の醸造工場として、妻木頼黄の設計により建てられました。現在、半田市が所有し、イベントなどの折りに公開されています。
旧岡崎銀行本店(大正6年築)。現在、岡崎信用金庫資料館として、1階は市民ギャラリーとして市民に開放されています。
旧バンザイ清涼飲料水会社工場(明治35年築)。当時、外人向けのサイダーなどを製造していたといいます。その後、現在も宝製鋼の工場として現役です。
今週末からスタートする「まちかどの近代建築写真展 IN 大阪III」ですが、埼玉県川口市でも、一部この会期と重なる形で写真展を開催します。「まちかどの近代建築写真展 IN 川口」では、関東地方の建物を中心に展示します。
まちかどの近代建築写真展 IN 大阪III(第12回)
~現存する全国の煉瓦建築~(「海岸通建物語3」関連企画)
会期:2008年3月15日(土)~4月19日(土)
会場:天満屋ビル2階「お茶と雑貨のハaハaハa」
大阪市港区海岸通1-5-28 東展示室
時間:7:30~18:00 土・祝は11:00~18:00(定休日:水曜、日曜)
(但し、3月15日(土)は14時から、4月19日(土)は14時まで)
主催:お茶と雑貨のハaハaハa
企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:近代建築探訪メーリングリスト
まちかどの近代建築写真展 IN 川口(第13回)
(「KAWAGUCHI39ART2008」関連企画)
会期:2008年3月22日(土)~3月30日(日)
時間:10:00~17:00
(但し、3月22日(土)は13時から、30日(日)は16時まで)
会場:蔵・浜田 埼玉県川口市本町1-11-24
TEL:048-222-2219(浜田接骨鍼灸院:※会期中の問い合わせ先)
主催:まちのこし集団 かわぐち塾
企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:近代建築探訪メーリングリスト
旧長崎英国領事館(明治41年築)。長らく児童科学館として活用されていましたが、その後、野口彌太郎記念美術館として公開されています。
先日、滋賀県立近代美術館で現在開催中の「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展」を見てきました。
滋賀県立近代美術館「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展」
http://www.shiga-kinbi.jp/exhibition/exhibition_database/pressrelease/exhibition_07-5.html
ヴォーリズは、明治末から昭和半ばにかけて日本で活躍した建築家です。アメリカ生まれで、滋賀県の近江八幡の学校に英語教師として来日し、その後素人建築家として設計事務所を開設、関西を中心に日本各地の建物を設計しています。昭和16年に帰化し、一柳米来留となりました。また、アメリカの常備薬であったメンソレータムの販売元として近江兄弟社を起こし、キリスト教布教の一助としたりしています。
下記のページに、小生がまとめたヴォーリズの紹介があります。
http://www.jmam.net/b/zinmei/vories-h.htm
学生時代に京都で下宿していたのですが、関西で生活していると、ヴォーリズの建物はとても身近に感じられます。例えば、京都の大丸百貨店の入口上にある、羽根を広げた孔雀のデザインなど、アールヌーボーだなと思って見上げておりました。四条大橋西詰の東華菜館など、誰もの記憶に残るような建物もあります。ヴォーリズの商業建築は、基本的にはアールデコなのですが、息苦しいまでの細かいデザインが過剰とさえ思えるほどです。一方、住宅などは、スパニッシュで、いかにも品のよい洋館といった別荘風な建物が多く、親しみが持てます。教会や学校の建物も、各地に建てられています。
北海道から九州まで、全国各地にヴォーリズの建物があり、それが結構多く残っています。これは、ヴォーリスの建物が人々に愛されている証拠ではないでしょうか。
今回の「ヴォーリズ展」では、設計図面を中心に、建物の写真や家具、著書などが、広い展示スペースで広々と展示されています。
滋賀県立近代美術館での「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展」は、3月30日(日)まで。月曜休館です。
なお、この後、「ウィリアム・メレル・ヴォーリズ展」は各地に巡回の予定です。5月には福岡の西南学院大学博物館、夏には軽井沢町歴史民俗資料館、秋には大阪芸術大学博物館、そして来年春には東京の松下電工汐留ミュージアム。
今村カトリック教会(大正2年築)。長崎ではなく、福岡県に鉄川与助設計の教会があることを知り、驚いて訪ねました。
旧大同生命福岡支社(明治45年築)。元々は博多の中洲にあったこの建物を、昭和61年に黒木町のグリーンピア八女内に「明治の館」として移築・保存したもの(イメージ保存)です。
旧盛岡銀行本店(明治44年築)。辰野式の典型的な銀行建築で、岩手銀行中ノ橋支店として現役です。
旧熊本市八景水谷水源地第二井送水ポンプ室(大正13年築)。水道施設は、どこも市街地から少し離れた場所に立地しています。
旧歩兵第二十一連隊雨覆練兵場(明治31年築)。浜田市立第一中学校屋内運動場として活用されています。登録文化財。
旧歩兵第二十一連隊雨覆練兵場(大正5年築)。こちらは、島根県立浜田高等学校第二体育館として使われています。登録文化財。
旧駒井酒造店。JR陸奥湊駅そばの新井田川沿いに建つ煉瓦造の酒蔵です。商標等でいろいろあったようで、つい最近まで八戸酒類みなと工場だったようなのですが、それも閉鎖とか。
カイナラタクシー。昭和30年代の建物かも知れませんが、スチールサッシとスクラッチタイル貼り、そして塔屋の感じが「アヤシイ」建物です。
奈良公園から奈良刑務所へ向かう国道沿いの看板建築です。この並びに銭湯があったのですが、見当たりませんでした。
旧奈良県物産陳列所(明治35年築)。現、奈良国立文化財研究所。奈良公園内で、奈良博物館のデザインが洋風すぎて評判が悪く、それ以降の建物は和風になったと言われています。
旧奈良女子高等師範学校(明治42年築)。いつも変わらぬ、美しい建物です。旧本館は、現在、奈良女子大学記念館となっています。
日本聖公会奈良基督教会堂(昭和5年築)。いつもアーケードの商店街から、石段の上にある教会堂を見上げるだけでした。今回、扉が開いていたので、初めて石段を上がり、教会堂内部まで拝見させていただきました。
旧国鉄奈良駅駅舎(昭和9年築)。保存運動により、平成16年に現在地に曳家されました。ただ、せっかく保存されたのに、周囲をフェンスで囲み何も使われていない状況は大いに残念です。
旧奈良刑務所(明治41年築)。司法省技官だった山下啓次郎設計による、明治五大監獄の一つです。現在、奈良少年刑務所として現役です。以前は門に守衛がいて、撮影しようとするとすぐに阻止されたのですが、何故か今回は誰もおらず、撮り放題でした。
スナックGAL'S倶楽部。昨日の郵便局の斜向かいにある建物です。よく見ると、しっかりとした洋館でした。旧郵便局かも知れません。
青木医院(大正11年築)。いかにも大正時代らしい木造の医院です。庭木の背が高くなって建物の全貌が見えません。
大手見番。旧歯科医院の建物ですが、その後見番として使われてきたハーフティンバーの建物です。
丸柳大津屋倉庫(昭和12年築)。タイル貼りの外壁左右に、建材メーカーの月星とチチブセメントのマークがアクセントになっています。
信州諏訪味噌工業協同組合。スクラッチタイルと、小さな四角いタイルが全体を覆った建物です。
アトリエKAZU。1階部分は改装されていますが、縦長の窓が規則正しく並んだ角地の3階建ての建物は、とても魅力的です。
TAKASIMA。1階の店舗部分は改装されています。TAKASIMAの文字は、三村貴金属店のアールヌーボー書体と同じではないかと思います。
河西家具店。2階の大きな窓と、白い塗装で覆われていますがその下のタイル貼りがモダンです。
五味ミシン店。上部のスクラッチタルとその中央にメダリオン、左右に縦縞の細工など、見どころの多い建物です。
三村貴金属店(左)、白牡丹(右)。三村貴金属店上部中央のアールヌーボー風書体のローマ字ロゴが、この建物の魅力です。
旧店舗。現在は店を閉め、店舗部分を改装しています。塔屋の櫛状の模様がライト風でモダンです。
サイキ薬局。上諏訪駅近くにあり、歩道上のアーケード撤去がなされ、看板建築の全貌がよく見えるようになりました。
旧長野農工銀行上諏訪支店(大正14年築)。長らく空家となっていましたが、現在は予備校が入っています。
旧片倉館懐古館(昭和18年築)。片倉館に隣接して建っている帝冠様式の建物です。現在、諏訪市美術館として利用されています。
片倉館(昭和3年築)。森山松之助設計の共同浴場で、チェコスロバキアのカルルスバーグのスパを参考に、片倉財閥が建てた厚生施設です。
旧尾形医院。旧共同高田銀行の並びに、川に面して建つ左右対称の建物です。中津にある医院に似ています。
現在隣に建つ早田内科医院の旧医院か、住宅かと思われます。外壁の塗装が新しく復元の可能性もありますが、観光コースから外れた通りに建っており、おそらくは昭和初期の建物かと思われます。
旧高田信用組合(昭和8年築)。一見、土蔵造りの見世蔵のようですが、2階の窓にアーチが見えます。思わず、内部を覗き込んでしまいました。空家ですが、まだカウンターが残っています。
旧共同高田銀行(大正10年築)。橋詰に建つ煉瓦造の銀行建築です。惜しいことに現在空家となっており、車庫として使われています。
旧共同野村銀行(昭和8年築)。結構手の込んだ銀行建築です。昭和のまちおこしで有名な豊後高田の商店街の中ほどに建っています。せっかくの建物なのですが、活用の方法がいま一つ。もっと積極的に、前面に出してアピールしても良いと思うのですが。
長田医院(大正7年築)。旧邑久中学校講堂の先に古い医院があると聞き、訪ねてみました。庭木が繁っていて全貌が見えませんが、煉瓦基礎で、正面右側が特徴的です。
長井の大通りに建つ洋館。正面中央の小屋根が特徴的です。窓やシャッターなどの開口部は、後に改修されていると思います。
グンゼ長井工場。
塀を隔てた隣の敷地には、黒い塗装の協同薬品工業。こちらは、旧郡是長井工場の建物の転用かと思われます。
長井駅(大正3年築)。旧国鉄の駅舎です。現在、山形鉄道フラワー長井線の本社が置かれています。
旧郡役所の近所にあるパン・菓子・食料品店。ポーチが、最初からこの建物に付いていたものか、他の建物から移したものか不明です。
長井市立長井小学校(昭和8年築)。左右対称の総2階建て、左右にそれぞれ4教室ずつ、全長100mに及ぶ大規模な木造校舎です。
旧西置賜郡役所(明治11年築)。現在、小桜館という名の貸しホールとなっています。来年、築130周年を迎え、記念イベントが計画されています。古い写真を見ると、ベランダの付いた玄関ポーチがあったようですので、その復元が待たれます。
旧桑島眼科医院(昭和5年築)。曳家で移動し、保存された洋館です。ただ、せっかく保存された建物ですが、現在は残念ながら空家状態で常時使われておりません。個人的には、常設の展示などを行ない、まちと建物の紹介に使ってこそ建物を保存した価値があると思うのですが。
旧小池医院(昭和6年築)。以前から気になっている建物です。この建物の直前まで道路の拡幅工事が迫ったままでストップしています。ほんの少しだけ、歩道分が建物にひっかかっているだけなのです。何としても、残したい建物です。
安藤写場。一見新しそうな建物ですが、木製サッシの様子を見ると、昭和初期の建物ではないかと思われます。
旧ノッス博士宣教師館(明治43年築)。現在、穴澤訪問看護ステーション、穴澤指定居宅介護支援事業所として使用されています。
同じ穴澤病院の敷地内には、同型の洋館が建っています。
旧連隊兵舎(明治41年築)。
旧連隊の門柱です。現在、中学校の校門として使われています。
居酒屋が入っている2連アーチの看板建築。会津若松では、こうした連アーチの看板建築の建物が目につきます。
野口英世青春通りに建つ旧医院。道路に面した部分が駐車場となって、建物の際までブロック塀が迫っています。
旧黒河内胃腸病院(昭和10年築)。ちょっと整備され過ぎている「野口英世青春通リ」にある旧医院です。
旧五十嵐医院(大正12年築)。この通りは医者町で、道の両側に沢山に医院が建ち並んでいます。
建物は新築になっていましたが、こんな煉瓦の門柱のある医院もありました。
まちかどのたばこ屋さん。屋根の上の2つの角が、洋風建築の目印です。地域によって、角の形が違うのが面白いです。
とても良い感じの、小さな洋館。隣の敷地が駐車場となり、この建物が見えるようになりました。
旧塚原呉服店本店(大正15年築)。第二塚原呉服店とは道を隔てた斜向かいに建ち、運動具店として現役です。
白木屋漆器店(大正2年築)。今も漆器店として活躍しています。
この白木屋漆器店は、旧第四銀行会津支店と並んで建っています。
旧第四銀行会津支店(昭和4年築)。岡田信一郎設計の本格的な銀行建築で、現在は滝谷建設工業の社屋となっています。
旧郡山商業銀行若松支店(大正10年築)。現在、「会津西洋館」「四ツ角大正館」という飲食店として活用されています。
旧若松庶民金庫。歴史的景観指定建造物。昨日の旧会津実業信用組合もそうですが、正面上部中央が丸くなっている建物は、いかにも街の近代建築です。
旧米沢女子高等学校(昭和10年築)。登録有形文化財。現在、九里学園高等学校として現役で使われています。
旧米沢織物組合本館(大正11年築)。登録有形文化財。現在、米沢織物歴史資料館として公開されています。上杉博物館で、新築当時の写真を見ましたが、現在とはずいぶん違っています。ただ、階段の踊り場のステンドグラスなどは、以前のままです。
先にお知らせいたしました通り、今週月曜日より、下関市の山口銀行旧本店にて、「まちかどの近代建築写真展 IN 下関II」が開幕いたしました。
会場風景の写真が届きましたので、UPいたします(高月鈴世氏撮影)。
「全国の銀行建築 1920-1925」
~まちかどの近代建築写真展 IN 下関II~
会期:2007年11月5日(月)~18日(日)
10:00~17:00
(会期中、土、日は休館。ただし、18日(日)午後は、コンサートイベントがあるため開館します。最終日は16:00まで)
会場:山口銀行旧本店(山口県指定有形文化財)
山口県下関市観音崎町10-6
主催:下関市
協力:「まちかどの近代建築写真展 IN 下関」実行委員会/近代建築探訪メーリングリスト
※明日10日より、対岸の門司で「赤煉瓦ネットワーク2007門司大会」なのですね。
http://mojirenga.navitown.com/event.htm#071031-1
「産業考古学会全国大会」も。
http://f17.aaa.livedoor.jp/~heritage/H19zenkokutaikai.html
下関市や下関市教育委員会も後援に入っている。下関市役所第一別館や、山口銀行旧本店にも、ぜひ見に来て欲しいものです。
追記
11月10日(土)、11日(日)、17日(土)は、休館でした。残念(涙)。
旧米沢高等工業学校本館(明治43年築)。現山形大学工学部で、国の重要文化財に指定されています。
スクラッチタイルの店舗。旭川などでは公設市場の建物の印象ですが、新潟ではどういう建物だったか。
昭和10年代から20年にかけて、戦時下で金属不足のため、鉄筋コンクリートに代わる材料として竹筋コンクリートが研究され、実際に施工されたと言われています。
しかしながら、現在、どれが竹筋コンクリートによる物件であるかは文献では伝わっておらず、伝聞として伝わっているものばかりでした。
少々前になりますが、今年の7月、玉井孝幸先生のブログ「建築調査技術コンサルタンツ」に、決定的な情報が記載されていました。
http://brtc.at.webry.info/200707/article_5.html
昭和16年発行の古本『時局化における土木工事の施工法に関する講演会講演集』のなかに、「竹筋コンクリートの強度並びに調査」と題する発表があり、竹筋コンクリートで施工された建築物の例が載っているとのことです。
報告されている物件は、下記の4件。
農林省林業試験所の各試験地の建築物の一部
・白河(福島県)気象観測室および雨量計地下室
・鷹巣(秋田県)
・釜淵(山形県)
・十日市(新潟県)
現存しているかどうかはわかりませんが、少なくとも昭和16年までに、実際に竹筋コンクリートの建築物が建てられたことが明らかになりました。
それぞれの地元の方からの情報提供を、切望いたします。当時の建物は、現地に残っていますでしょうか。小生も、いずれ各地を訪ねてみたいと思います。
昭和16年以降にも、竹筋コンクリートの建築物は建てられたはずです。さらなる発見を期待したいものです。
中村写真機店(昭和11年築)。白いタイルをまとった四角い建物で、新築当初は白亜のモダン建築だったと思います。
昨日の旧山一証券新潟支店と同じ通りに建つ店舗物件。建物の由来がわかりません。スクラッチタイルと、2階の4本のオーダーが特徴です。
旧新潟税関庁舎(明治2年築)。国指定重要文化財。以前は新潟市立博物館として活用されていましたが、現在はその敷地内にみなとぴあ新潟市歴史博物館が新築され、空家状態のなっています。
旧第四銀行住吉町支店(昭和2年築)。現在、みなとぴあ新潟市歴史博物館の敷地内に解体・移築され、公開されています。登録文化財。
新潟市水道局別館。四角いRC造の建物ですが、各柱の上に自然石風の飾りがのり、窓下に飾りが付けられています。由来がわかりませんが、おそらく、新潟市水道局の旧事務所ではないかと思われます。
昨年秋に引き続き、山口県下関市で「まちかどの近代建築写真展」を開催いたします。
今回は、「たてものから見る下関の1920年」という下関市のイベントの一環として、「全国の銀行建築 1920-1925」と題し、この6年間に建てられた、現存する銀行建築のみを展示します。
「全国の銀行建築 1920-1925」
~まちかどの近代建築写真展 IN 下関II~
会期:2007年11月5日(月)~18日(日)
10:00~17:00
(会期中、土、日は休館。ただし、18日(日)午後は、コンサートイベントがあるため開館します。最終日は16:00まで)
会場:山口銀行旧本店(山口県指定有形文化財)
山口県下関市観音崎町10-6
主催:下関市
協力:「まちかどの近代建築写真展 IN 下関」実行委員会/近代建築探訪メーリングリスト
同時に、下関市側で用意した「たてものから見る下関の1920年」という写真展示もあります。
旧新潟師範学校記念館(昭和4年築)。現在、新潟大学あさひまち展示館(旭町学術資料展示館)として、新潟大学構内にて公開されています。登録有形文化財。
カトリック新潟教会司教館。元は、幼稚園や学校などの建物だったのではないかと思うのですが、どうでしょう。
カトリック新潟教会(昭和2年築)。2つの尖塔の三角屋根の腰部分が折れているところなどが、ヒンデルの建物らしいなあと思います。
金井写真館本店(明治20年築)。この色に驚いてしまいました。
2000年に訪ねたときの写真は、こちら。
駅前通りと国道とが接する角地に建つ。下見板張の二階家。左隣の敷地は、道路拡幅工事で削られてしまったようでした。
2年前、2005年秋に公開された映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は大ヒットとなり、昭和ブームが到来しましたが、来月いよいよその続編が公開となります。
ストーリーや小さな逸話などで、本当に泣かさる(北海道弁)映画なのですが、それとは別に、昭和30年代の風景を求めて各地でロケが行なわれており、そのロケに使われた建物などにも興味が向かいます。前作では、栃木県栃木市の「旧足利銀行栃木支店」や、岡山県岡山市西大寺の「五福通り商店街」、岡山県倉敷市玉島などでロケがおこなわれ、東京の昭和30年代の風景を再現していました。
今回の「ALWAYS 続・三丁目の夕日」では、次のようなロケ情報があります。
・東京都国分寺市東恋ケ窪の「孫の湯」
・東京都千代田区の「九段会館」
・兵庫県西宮市の武庫川学院「甲子園会館」
・群馬県館林市の神社
・静岡県島田市で「東京冬の街角」風景
・岡山県真庭市の「旧遷喬尋常小学校」
・福岡県北九州市八幡東区で「東京浅草の繁華街」風景
・山口県宇部市の「渡辺翁記念会館」
http://www.geocities.jp/always3chome/zoku-ashiato.html
こうしたロケ地の建物の他に、CGで再現された建物もこの映画の楽しみです。今回の続編の予告編を見ていたら、日本橋の橋詰に建つ旧帝国製麻ビルが、美しく映っているではありませんか!!
映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」公式ページ
http://www.always3.jp/
Yahoo!動画「『キネマ横丁』『ALWAYS 続・三丁目の夕日』特番」
http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00073/v02835/
旧帝国製麻ビルは、東京駅と同じ辰野金吾の設計で、赤レンガに白い石の帯をまわした、いわゆる「辰野式」の建物でした。調べてみると、昭和62年(1987年)に解体されています。気が付くと、いつの間にか解体されていたという印象です。
解体時には大栄不動産の所有となっており、金文字で大きく「大栄不動産」と書かれていましたが、調べてみると大栄不動産がこのビルを所有したのは昭和39年。「ALWAYS 続・三丁目の夕日」で、このビルに「大栄不動産」と書かれていれば誤りということになります。
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」は、11月3日より全国東宝系でロードショー公開です。
旧刈田病院(明治15年築)。物置状態で、建物の手前ギリギリまで別の建物が建っています。何とか、有効に活用したい物件です。
奥州白石温麺協同組合。麺の協同組合といえば、笠岡の岡山県製粉製麺工業協同組合を思い出します。
明日10月6日(土)より、東京都文京区根津にある日本基督教団根津教会(登録有形文化財)を会場に、「まちかどの近代建築写真展 IN 根津II」が開幕いたします。実は、昨晩はその準備で、明け方まで展示パネル作りをしておりました(笑)。
初日の明日は、夕刻より設営現場の公開となりますが、お時間のご都合がつけば、ぜひお運びください。
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2004年にJR札幌駅コンコースを会場にスタートした「まちかどの近代建築写真展」も、今回で第10回を数えることとなりました。これまで、山形県長井市に残る郡役所や大阪市港区の天満屋ビル、山梨県甲府市のカトリック教会などを会場に、回を重ねることができましたことを、会場を提供してくださった方々、また、来場頂いた皆様に感謝申し上げます。
「まちかどの近代建築写真展」は、近代建築探訪メーリングリスト有志の撮影による、全国各地の身近な近代建築の写真展です。どこの町にも、生活や歴史を秘めた素敵な近代建築がひっそりと建っているものです。この写真展は、こうした近代建築を通じて、それぞれの町を見直しきっかけとなればと思いスタートさせました。これからも私たちの写真展が、人々の思い出や町の歴史のために役立てればと願っています。
「まちかどの近代建築写真展IN根津II」(谷中芸工展参加)
会期:2007年10月6日(土)~10月14日(日)
時間:10:00~17:00(初日は16:00から。最終日は16:00まで)
会場:日本基督教団根津教会(東京都文京区根津1-19-6)
主催:日本基督教団根津教会
企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:近代建築探訪メーリングリスト
日本建築学会関東支部歴史意匠専門研究委員会
データベースワーキンググループ
建築から学ぶ会
*なお、この写真展は会場さえ用意いただければ、全国どこへでも出前(貸出)をいたします。空き店舗、地域スペース、学校など、町おこしなどのきっかけとしていただきたく存じます。(連絡先:gookomichi@mail.goo.ne.jp)
市内で見かけた謎の物件です。建物のシマシマは、モルタルでコーナーストーンを表したものかと思われます。弁護士などの事務所ではないかと思われます。
旧弘前偕行社の裏手に、趣のある住宅が2棟建っています。おそらく、官舎だったのではないでしょうか。
旧吉井酒造煉瓦倉庫(大正14年頃築)。弘前に行く都度、気になっていた大きな煉瓦倉庫です。近年、ギャラリーとして使用されたりしています。
旧弘前銘醸煉瓦倉庫。現在、弘前製氷となっています。
旧三原堂弘前支店(明治30年築)。現、一戸時計店。時計塔のかわいい、古くからの商店街に建つ弘前のランドマークです。
旧高谷英城別邸洋館(昭和10年築)。弘前にある本格的ライト建築で、現在、中華レストランとして活用されています。
旧青森尋常中学校(明治26年築)。現在、弘前高校構内で鏡ケ丘記念館として大切に保存されています。
旧弘前無尽(昭和2年築)。旧国立第五十九銀行や日本基督教団弘前教会会堂の道路の向かいに建っている商業ビルです。
旧角三呉服店(明治16年築)。市指定文化財。土蔵造の擬洋風建築です。大正6年に津軽銀行に譲渡され、平成10年まで長らく青森銀行津軽支店として使われていました。現在、弘前市立百石町展示館として公開されています。
旧第八師団長官舎(大正6年築)。登録文化財。市役所敷地に移築され、市長公舎として使われました。
旧弘前市立図書館(明治39年築)。青森県指定重要文化財。一時期、民間に払い下げられ、他の場所に移築してアパートとして使われていました。昭和62年に東奥義塾が移転して追手門広場となる際に、かつて建っていた場所の近くに再移築されました。
旧東奥義塾外人教師館(明治34年築)。青森県指定重要文化財。昭和62年に東奥義塾が別の場所に移転し、跡地が追手門広場として整備され、この外人教師館がそのまま旧敷地内に保存された形となりました。
旧国立第五十九銀行(明治37年築)。国指定重要文化財。現在、青森銀行記念館として公開されています。かつては、日本基督教団弘前教会会堂と同じ通り沿いに建っていましたが、昭和40年代に90度振って一区画奥に移築・保存されました。
日本基督教団弘前教会会堂(明治40年築)。弘前城を背にして幹線道路に面して建つ、弘前を代表する教会の建物です。現在のペイント色は、ちょっと浮いている感じがするのは小生だけでしょうか。
弘前カトリック教会(明治43年築)。この教会も、以前は住宅地の中に埋もれるようにひっそり建っていたのですが、現在は広々とした敷地に美しくそびえています。
弘前昇天教会聖堂(大正10年築)。弘前で計画道路や拡幅工事が活発化する以前、この教会は知る人ぞ知るといった隠れた存在でした。現在は、周囲の建物の立退きもあり、広い通りから駐車場越しに見渡せる、弘前を代表する教会の一つになりました。
旧偕行社(明治38年築)。戦後、保育園として使用されていましたが、現在は弘前女子厚生学院記念館として公開されています。
旧制官立弘前高等学校外人教師館(大正14年築)。旧偕行社のそばから、弘前大学構内に移築されました。きれいにペイントされた姿は、移築前の姿を思うとまるで別物のようです。
正進会館。現在、空手の道場となっています。窓の飾りなどを見ると、軍か学校の講堂だったのではないかと思われます。
弘前消防団西地区団第一分団屯所。前川國男の木村産業研究所を探していて、偶然見つけた屯所です。道がクランクになったところに建っています。
すでに解体も始まった旧長崎刑務所ではありますが、仮に保存が実現したとして、どのような活用方法があるかを、思いつくまま、独断で勝手に書いてみました。採算や費用度外視で、とにかくプランの種類や数を多く出すことが目的です。実現性のないムダなことだなどと考えずに、皆さんの考えもお寄せください。
●ホテルなどの宿泊施設。房舎も、当然改修して宿泊施設として利用する。倉敷アイビースクエアのイメージ。
・倉敷アイビースクエア
http://www.ivysquare.co.jp/
●刑務所博物館。旧長崎監獄を体感する体験型施設。修学旅行生や、団体観光バスによる集客を期待。博物館網走監獄のイメージ。
・博物館網走監獄
http://www.kangoku.jp/
●レストランなどの飲食店。庁舎だけ保存の場合にも有効。事例は多いが、例えば東京の小笠原伯爵邸などのイメージ。
・小笠原伯爵邸
http://www.ogasawaratei.com/html/index.html
●地域の集会所・公民館など公共施設。庁舎だけ保存の場合、公民館を新築する予算を改修・改装費用に充てれば、充分実現可能と思われる。一部は展示コーナーとして、旧長崎刑務所についての展示解説を行なう。
●たてもの園。庁舎を管理棟とし、長崎歴史文化博物館の分館として、長崎県内で解体せざるを得なくなった歴史的な建物を移築保存し野外展示を行なう施設とする。犬山の博物館明治村や、東京の江戸東京たてもの園のイメージ。
・博物館明治村
http://www.meijimura.com/index.html
・江戸東京たてもの園
http://tatemonoen.jp/
●結婚式場。歴史的な建物を結婚式場にする例は多いが、さすがにこれはムリだと思う(笑)。
●温泉施設。庁舎を利用し、スーパー銭湯的な入浴施設にする。イメージが貧弱(泣)。
●ショッピングセンターの管理棟。敷地をショッピングセンターとする場合、庁舎を管理棟として保存・活用する。
●シナリオ図書館。庁舎を利用し、諫早出身の市川森一氏の作品をはじめとする、テレビドラマや映画などのシナリオ(台本)全て収集する図書館とする。
●九州赤煉瓦博物館。九州地区の赤煉瓦建造物の資料展示を行なう。舞鶴の赤れんが博物館のイメージ。
・舞鶴市立赤れんが博物館
http://www.maizuru-bunkajigyoudan.or.jp/akarenga/index.htm
町の中央部にある紡績工場の建物。周囲に建ち並んでいた別棟の建物が、今まさに解体中でした。この建物は保存されるのでしょうか。
8月31日、諫早で開催された「旧長崎刑務所の保存と活用を考える市民フォーラム」ですが、当夜、出席された長崎総合科学大学の山田由香里さんからお電話をいただき、会議の様子などをうかがいました。また、「旧長崎刑務所の保存と活用を考える会」の栄田元信さんから、メールで状況のご報告をいただきました。長崎県建築士会長崎支部青年部のブログや、長崎新聞、西日本新聞などでも報道されております。
「市民フォーラム」((社)長崎県建築士会 長崎支部青年部のブログ、9月1日付)
http://blog.goo.ne.jp/nagasaki-seinenbu/e/1d23657a658badda0f9bbbfc5be4b48c
「高評価、一方で否定的声も 旧長崎刑務所でフォーラム」(長崎新聞、9月2日付)
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070902/04.shtml
「「署名行動で勢いを」「解体の現実を直視」 旧長崎刑務所の保存策探る 諫早でフォーラム」(西日本新聞、9月2日付)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/20070902/20070902_002.shtml
お話をうかがった内容や報道などを見ると、市民の間でかなり意見が割れてしまっているようです。これまでにも、近隣住民の意見は報道されていましたが、旧長崎刑務所を保存するということについての反発は報道以上のものがあるようです。近隣の地主など、直接、利害や利権の絡む問題ですので、これは止むを得ないことでしょう。
また、当ブログへのコメントとして、市民の方々からいくつか書き込みがありました。武田洋子さん、ムーミンさん、山口さん、コメントありがとうございます。それらの意見をまとめると、主張は次の3点になるかと思われます。
まず、財源の問題です。ここでも、保存するには10億円もかかるというステレオタイプの金額が提示されています。今のご時世、お金が無いのは当然ですので、お金が無いならば無いなりの保存の方法があります。また、その負担を市民に負わされるのではたまらないという意見はもっともなことで、旧長崎刑務所のような貴重な文化財級の物件の保存は、国民の財産として国全体で負担すべきでしょう。これは私見ですが、文化財の保存は、将来の子孫に残すということですから、未来への負債でも良いのではないかと考えています。後世、よくぞ残してくれたと喜ばれるか、なぜ解体してしまったと恨まれるか、ということです。
次に、なぜ今ごろ保存を言い出すのかという時期の問題です。これは、現在保存を主張している人々が、反省しなければなりません。小生も、なぜもっと早く保存を訴えなかったのかと思っています。小生の場合、2005年に出た書籍『九州遺産』に掲載されていた写真でこの旧長崎刑務所を知り、2006年の春に初めて現地で旧長崎刑務所を見、なんとか保存できないものかという思いをつのらせておりました。所有者が国であり、何らかの保存措置はするだろうという淡い期待もしておりました。今年の春、報道で民間業者への売却を知るに及び、このままでは解体されてしまうとの危機感から、ようやく行動を開始したのでした。正直なところ、旧長崎刑務所のことを知るのが遅すぎたというのは事実です。もっと早くに、この旧長崎刑務所のことを知っていればと思います。ただ、解体に着手したいまさらでは遅すぎるということは決して無く、どんな時点であれ保存が主張されたということは、まだ可能性を残しているということです。小生のように、多くの人々が旧長崎刑務所のことをまだ知りません。それらの人々に、この旧長崎刑務所の存在を知ってもらい、残すか解体するかの価値判断をしてもらわなければならないと考えています。ごく一部の役人の判断だけで、国民の貴重な財産を喪失してしまっては、後世に取り返しのつかないことになってしまいます。たとえ、多くの市民が解体を望もうとも、保存すべき価値のあるものは、利害関係抜きに判断し、保存措置が図られなければならないと考えます。
最後に、保存を主張するのは市外の人々だけで市民は解体を望んでいるという、これまでも多くの保存運動で見られた地元が解体を望むという構図の問題です。文化財級の貴重な財産である旧長崎刑務所は、近隣住民や行政地域内の市民のものではなく、広く国民のものであるということを理解すれば、この主張はあきらかに誤りであると納得してもらえると思います。さらに、先にも述べたように、貴重な財産である旧長崎刑務所は、現在生きている者だけの財産ではなく、将来の子孫の財産でもあるということを考慮しなければなりません。小生は、これまでにもこの構図を、空間軸と時間軸の問題として、もっと視野を広げて考える必要性を主張してきました。解体してしまうということは、両軸を断ち切ってしまうということなのです。
以上、市民フォーラムを受けての、小生の感想と回答でした。
なお、この市民フォーラム前後にも、旧長崎刑務所のことが盛んに報道されています。多くの人々に、旧長崎刑務所のことを知ってもらうことが、今いちばん大切なことなのだと思います。
「貴重な西欧風れんが造りを発見 旧長崎刑務所解体現場」(長崎新聞、9月1日付)
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070901/01.shtml
「山下啓次郎と旧長崎刑務所展 市立諫早図書館で始まる」(長崎新聞、8月28日付)
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji2/2007082802.shtml
「旧長崎刑務所正門など保存訴え 諫早市に「考える会」要望書…旧長崎刑務所」(読売新聞、9月4日付)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagasaki/news004.htm
近く、社団法人日本建築学会九州支部より、保存要望書の提出が決まったとのことです。旧長崎刑務所が、学術的にも貴重な物件であるということが、裏付けされました。
通り側にベランダをまわしたこの建物は、いったい何の建物だったのでしょう。
同じ通りには、やはりベランダを付けた商家の建物もありました。
平和堂看板店。ライオンの飾り、入口上の円弧を描く窓、右隅に小さくある円窓など、賑やかで楽しい建物です。
西日本新聞8月26日の用語解説「ワードBOX」に、旧長崎刑務所が取り上げられています。
「視点’07ながさき=旧長崎刑務所、年内解体へ 見えぬ跡地の将来像 諫早市 「保存」「開発」ともに課題」
http://www.nishinippon.co.jp/news/wordbox/display/5104/
これを読むと、旧長崎刑務所は近隣住民のとっては「迷惑施設」でしかないようです。シロアリ被害、ぼや騒ぎ、痴漢出没などなど。しかし、これらの問題は、記事にもある通り、旧長崎刑務所そのものに起因する問題ではなく、旧長崎刑務所を15年間も放置し続けてきたことによる管理上の問題です。
地元が保存に反対するという構図は、全国各地で見られます。以前書きましたが、小樽運河保存の際も、地元は運河埋立賛成でした。妥協・折衷案でしたが、何はともあれ小樽運河が残され、今日の観光化した小樽があります。運河を残すことで、その後どのような展開があるかの想像図を描ききれずに、地元は反対したということなのでしょう。
旧長崎刑務所も、残すことで将来どのような展開がありうるかを、具体的に示す必要がありそうです。昨今、旧長崎刑務所のような歴史的価値のある物件は、観光資源としても有望なのです。
西日本新聞の記事によれば、旧長崎刑務所の今後のカギは「用途変更」のようです。確かに、刑務所の用途地域って、何だったのでしょう。刑務所機能移転後の用途地域の指定も、何だったのか興味があります。県や市は、この「用途変更」の権限で、旧長崎刑務所の保存を取引することができそうですネ。
今後の展開が何も決まっていないにもかかわらず、ただ解体だけが押し進められている現状は、本当に許しがたいです。壊してしまっては、取り返しがつかないのですから。
8月31日の市民フォーラムを期待しています。皆で知恵を出し合って、残した後の旧長崎刑務所の活気ある姿を思い描きましょう。
以前から気になっていたのですが、全国を旅していると、丘の上に白いパゴダが建っているのをよく見かけます。どうも、鉄道の大きな駅などから見える位置に建っていることが多いようです。例えば、札幌や釧路、熊本など。
パゴダは仏舎利塔であり、インドのストゥーパが原形です。日本には木造の五重塔や三重塔、多宝塔などの形で伝わりました。パゴダは、ミャンマーやタイなどに伝わった形です。
つまり、現在各地に見られる日本のパゴダは、それほど古いものではないということです。小生の仮説では、伊東忠太設計による大正7年築の名古屋市の日泰寺仏舎利奉安塔が最初ではないかと考えました。その後、昭和初期にいくつか建てられ、昭和30~40年代に各地に建てられたのではないかと考えました。
今回、日本のパゴダのリストを作ろうと思って検索していましたら、すでに「塔婆-現存塔婆と塔婆遺跡」というHPに、「南方式仏塔(パゴダ)」の詳細なリストが載っておりました。
このリストによると、明治44年築の静岡県袋井市の可睡斎護国塔が最初のようで、設計は伊東忠太です。リストでは、大正7年築の日泰寺仏舎利奉安塔は、覚王山仏舎利塔として掲載されています。
伊東忠太が日本に持ち込んだという小生の仮説は、一応正しかったようです。「日本のパゴダの歴史」なんて、どこかの大学で研究しているのでしょうか。建築学というより、仏教系の研究ですかね。
旧芦品郡役所(明治36年築)。解体・移築し、現在、府中市歴史民俗資料館として活用されています。
諫早にある旧長崎刑務所の、保存・活用を考えるイベントが開催されます。主催は「旧長崎刑務所の保存と活用を考える会」。連絡先は、長崎県建築士会諫早支部(地建設計内)の栄田元信氏 (TEL:0957-24-0416、E-mail:motonobu@festa.ocn.ne.jp)。
以下、九州産業考古学会のHPよりの転載です。
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旧長崎刑務所の保存と活用を考える市民フォーラム
基調講演:高村雅彦准教授(法政大工学部)
パネルディスカッション:池田武邦氏(日本設計元社長)ほか
日時:平成19年8月31日(金)19:00~
会場:諫早市高城会館(長崎県諫早市高城町5-25)
これに併せて諫早図書館では8月28日~9月1日まで「山下啓次郎と旧長崎刑務所展」を開催しています。どうぞ足をお運びください。
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シンポジウムの開催日が、月末で週末の平日(!!)という、勤め人には一番難しい日程ですが、何とか駆けつけることができないかと思案中です。
(社)日本建築学会の全国大会が、この日まで福岡大学で開催されていますので、その後に挙って諫早にお出でいただければ良いですね。博多から特急で1時間半程度の距離ですので。
旧加能合同銀行本店(昭和7年築)。武蔵ヶ辻の角に建つモダンな銀行建築です。この度、この一角が再開発されることになり、少し曳家して保存されるとのことです。
諫早の旧長崎刑務所ですが、とうとう「解体工事のお知らせ」が表示されたとのこと。
お水の花道ブログ
http://myhome.cururu.jp/shinnosuke0113/blog/article/41001341518
九州ヘリテージ
http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=488985
写真から読み取ると、施行者(解体業者)は株式会社中嶋組、発注者は株式会社ユニディオコーポレーションと株式会社新日本建設。
しかし、それぞれの業者さんに言ったところで、仕事を請け負っているだけでしょうから、その大元の発注者(すなわち入札落札者)を探して保存のお願いをするしかありません。いったい落札者は、どこの業者さんなのでしょう?? ちなみに、中嶋組は長崎市、ユニディオコーポレーションは福岡市、そして新日本建設は千葉市の会社です。
実は、居ても立っても居られずに、今月中旬に建築関係の諸団体に対し、下記の「旧長崎刑務所」保存要望書の要望をメールにて発信いたしました。半月ほど経過した現在までのところ、どの団体も何の動きも見受けられませんが……。緊急アピールでも、ホームページ上などに載せて欲しいものです。何とか、一部でも残して欲しい。旧長崎刑務所は、重要文化財級の物件ですから。
チアキさん、ゴン太さん、情報をありがとうございます。
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社団法人日本建築学会九州支部 殿
社団法人長崎県建築士会 殿
社団法人長崎県建築士会長崎支部 殿
社団法人日本建築士会連合会 殿
社団法人日本建築家協会 殿
社団法人日本建築家協会九州支部 殿
社団法人日本建築家協会九州支部長崎会事務局 殿
日本建築学会「歴史的建築リスト整備活用小委員会」で委員をしております前村と申します。
さて、報道などでもご承知の通り、先月、長崎県諫早市の「旧長崎刑務所」が民間の不動産業者に売却され、解体間近となっております。
長崎刑務所の移転後、10年あまり空家のまま放置されたことで、廃墟のような状況ではありますが、山下啓次郎設計の「旧長崎刑務所」の価値は、決して減じるようなことはありません。
これまで世間では、「旧長崎刑務所」についての正当な価値評価が行なわれていないように見受けられます。ぜひとも貴会から保存要望書を出していただき、「旧長崎刑務所」の評価を示し、何らかの形で保存されるようご尽力くださいますようお願い申し上げます。
いつ解体が開始されても不思議ではない今、貴会としても早急に対処し、広く市民に向けて保存の呼びかけを行なうべきではないかと思われます。
微力ではありますが、小生もインターネット上で、ネットワークを通じて「旧長崎刑務所」の存在と価値を広報しております。世間に「旧長崎刑務所」の価値が認知されることが、まず第一と考えております。
来月、九州で建築学会の大会が開催されます。ぜひともこの「旧長崎刑務所」の保存が大きな話題となりますよう、何とぞご協力をお願い申し上げます。
なお、建築学会、建築士会、建築家協会等に対しても、保存要望書を出すよう働きかけを行なっております。
西町のポンプ小屋。大通りの1本隣の通りにあります。
同じ通りには、こんな建物もありました。
三津谷集落の煉瓦蔵群。喜多方市内より4キロほど離れたところにあります。近くに煉瓦工場ができ、その薪代の代わりに煉瓦の現物支給があったとも伝わっています。
煉瓦蔵の並ぶ三津谷集落。
若菜家の農作業蔵(明治43年築)と下屋(昭和7年築)。黒っぽい艶やかな煉瓦は、素焼の煉瓦に益子焼の釉薬をかけて2度焼した、寒冷地対策の防水煉瓦。
同じく若菜家の味噌蔵(大正10年築)。
若菜家の三階蔵(大正5年築)と、座敷蔵(大正6年築)。
ラーメン屋となっている近隣の煉瓦蔵。若菜家の下屋とデザインが似ています。
大通りから横道に入った中ほどに建っているピンク色の洋館。旧医院ではないかと思われますが、由来がわかりません。庇のTのマークが、誇らしげです。
若喜商店レンガ蔵(明治38年築)。登録文化財です。手前が2階建の座敷蔵、奥が3階建の道具蔵。
若喜商店店舗(昭和6年築)。登録文化財です。当初から、2種類のタイル貼りになっていたようです。右側の出窓、左側の八角形の窓など、左右対称ではない現役のモダンな建物です。
山形屋百貨店本店(平成10年改装)。この建物は、大正5年当時の姿を復元したレプリカ建築なのですが、とても良い出来で、本当に力が入っています。
http://www.yamakataya.co.jp/kaisya/top.htm
宮崎銀行鹿児島支店。昭和20年代の建物ではないかと思います。1階の天井が高そうです。
旧鹿児島県庁本館(大正14年築)。平成14年に旧県庁舎の玄関部分のみを曳家して保存。かつては、市庁舎と同じ市電通りに面して建っていました。曳く前の姿も、そして曳いている最中も、小生は見ることができました。ずいぶん長い距離を、そして横方向への移動だけでなく、縦方向への移動もあって、結構大変な曳家でした。
先月書きました朝日新聞連載「まちは生きていく」が、先週終了しました。全22回の連載でした。朝日新聞の編集委員である、松葉一清さんのコラムです。
前回、下関の回まで報告しましたが、その後紹介された記事は次の通りです。
・横浜市山手地区
・長崎県雲仙市
・北海道恵庭市
・大阪府千里ニュータウン
・千葉県佐倉市
・岡山県倉敷市
ここまでで19回でした。そしてこの後、特定の地域だけでなく、まちおこし、地域活性化の理論や実践を行なう人の話になります。
・そこにあるロハス(西郷真理子さん・地域再生プランナー)
・ヨコハマ事始め(田村明・法政大学名誉教授)
・旅の終わりに(小林重敬・横浜国立大大学院教授)
最終回は、大分県別府市でした。「わが国現存最古をうたう大正時代の『竹瓦小路アーケード』」の報告です。
各地の商店街で、アーケードが暗く壊れたままになっており、シャッターが閉ざされています。しかしその一方で、それぞれの工夫で地域を支え、踏ん張り、まちの再生に頑張っている人々のいることが、今回のコラムで数多く報告されました。アイデア次第で、まちが楽しくなっていくということを、小生も信じたいと思います。
鹿児島銀行別館(大正7年築)。先月、登録文化財への答申が出ました。正式に登録文化財の告示が出るのは、秋くらいでしょうか。
日本基督教団弘前教会会堂(明治40年築)。日も傾いてから弘前に着き、ようやく撮った写真です。弘前は、また改めて撮影に行きます。
今日、島根県の石見銀山が、ユネスコの世界遺産に登録されることが決定しました。一時は登録延期という事態ともなりましたが、まさかの逆転決定です。
世界遺産となった石見銀山の地域には、銀の積出港として栄えた温泉津の町があります。ちなみに、「温泉津」と書いて「ゆのつ」と読みます。ここはその名の通り温泉が沸いており、古い温泉場の雰囲気を残す町並みが続いています。20年位前までは擬洋風の警察署の建物も残っていたのですが、残念ながら解体されてしまいました。しかし、まだ洋風の古い旧共同浴場が残っており、また、数年前に訪ねたときには、いくつかの下見板張りの建物も見つけました。
「世界初の世界遺産登録の温泉」をキャッチフレーズに、温泉津は世界遺産登録に向けて運動を展開していましたが、とうとう本当になりました。ただでさえ細い道路に、沢山の観光客が訪れることになることを思うと、今後が心配です。
まずは、日本で初の産業遺産としての世界遺産登録決定を祝いたいと思います。世界遺産の登録名は、「石見銀山遺跡とその文化的景観」とのことです。
【追記】
ジブリのアニメ映画「もののけ姫」に出てくる「タタラ場」は、この石見銀山の製錬場をモデルとしてイメージしたとも言われています。鉱山は宝を産みますが、必ず鉱毒という問題も生じます。
平賀の町で見つけた看板建築。左右対称の凝った造りで、何屋さんだったのだろうと想像をかき立てられます。
旧清藤辮吉氏別邸(明治41年築)。盛美館として有名です。2度目の訪問ですが、思いの外こぢんまりとした建物です。
岩谷歯科医院。建物の前にある案内板は、この建物のものではなく、こみせのある伝建保存地区を紹介するものです。
今月より始まった、朝日新聞朝刊の連載記事「まちは生きていく」が面白いです。書いているのは、京大建築学科出身の編集委員、松葉一清さん。
全国各地の、まちおこしや地域活性化のために尽力された闘士・志士の方々の紹介です。エピソードを交えた写真入りの記事で、さまざまな興味深い実践例が示されています。
asahi.comに掲載されていないか探したのですが、どうも載せていないようです。後日、単行本にでもなるのでしょうか。
これまでに取り上げられた町は、
・高松市丸亀町
・山口県宇部市
・徳島市新町川
・京都市三条通り
・熊本県山鹿市
・新潟県村上市
・埼玉県川越市
・岐阜県飛騨市
・茨城県古河市
・長崎県島原市
・山口県下関市
今日の下関の記事は、下関市役所第一別館の保存の話でした。第一別館の写真が誇らしいです。
これまでの連載で「あッ!」と思ったのは、村上市のまちづくりの回。「会津若松の街並み保存運動家に『道路拡幅で成功した商店街はどこにもない』とさとされた」という話でした。そうなのですよね。道路の拡幅工事を行なった町は、どこもよそよそしい新興・復興の町のようになってしまうのです。さまざまな建物がゴチャゴチャしている町こそが、魅力的な独自性のある町なのに。
川越の回で、お上に頼らないまちおこしの話も、共感しました。「好きなことなので自腹が原則」、「政治に手をだすな、お上に頼らない気概を持て、と教えられて育った」という、代表の方のお話。「気概」を持たなければなりませんネ。
以降、どの町の話が出てくるか、楽しみです。
三上病院。ベランダ部分が妙に古い感じです。思うに、以前は、ベランダ・コロニアル様式の医院だったのではないでしょうか。その部材を使って、新しい建物を建てたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
旧長崎刑務所が、まだ残っていると信じて!!
旧長崎刑務所で検索していたら、「うさたろう日記 はてな版。」に興味深い資料がリンクされていました。平成18年10月10日付の「第55回国有財産九州地方審議会議事録」というもので、この中に、この旧長崎刑務所の民間不動産業者への売却にあたって、一部でも保存できないものかという審議会委員で九州大学名誉教授の樗木武氏の質問に対し、北村管財部長が説明をしています。
「(前略)それから、今、委員のほうから赤レンガ等の旧刑務所庁舎につきましての、文化財としての価値ということでございますが、この建物を文化財として保存するかどうかにつきましては、地元であります長崎県、諫早市が文化財保護法でありますとか、長崎県の文化財保護条例に基づきまして、保存を要するかどうかということを判断されることになっております。本件につきましては、私どもが長崎県、諫早市に確認した結果、いずれも保存することには該当せず、国が売却しても構わないという旨の回答を得た上で、一般競争入札を実施したところでございます。」
北村管財部長の説明では、旧長崎刑務所の保存価値について判断するのは県や市であると言っています。しかし、まずは所有者である国が判断すべきなのではないでしょうか。財務省では価値判断ができないということであれば、文化庁なり、あるいは建築学会なり建築士会なり、価値判断のできるところに聞くのが筋でしょう。この説明では、長崎県、諫早市が、旧長崎刑務所には価値がないと言ったから、保存する必要はないのだと言っています。しかし、本当に県や市は、旧長崎刑務所に価値はないと言ったのか。価値がないと言ったのではなく、保存するお金がないと言ったのではないでしょうか?
国の所有する旧長崎刑務所に対して、県や市が「保存する価値がある」と言うことは、すなわち引き取るということになるのではないか。財政的に厳しい県や市には、そのようなことを言い出すわけにはいかないだろうことは、想像できます。旧長崎刑務所には価値がないと言った当事者は、県や市であるとされていますが、これはすり替えではないか。純粋な価値判断と財政的な判断とは、全く切り離して行わなくては、判断を誤ります。
そもそも、県や市に聞く前に、所有者である国自身が旧長崎刑務所の価値判断をすべきでしょう。北村管財部長の説明では、そのことを、全く無視しています。
長崎県の担当者、諫早市の担当者の方々。旧長崎刑務所に保存の価値なしという誤った判断をしたのは、本当にあなたたちで良いのですか? 所有者としての、国の判断はどうなのですか?
かくして、正当に価値判断をされることなく、国(財務省)によって、旧長崎刑務所は売却され、今や解体寸前となっているのです。国民の、いや人類の、貴重な遺産である旧長崎刑務所が、真っ当な価値判断もされずに売り飛ばされてしまったのです。このことを、ずっと明記しておきたいと思います。
引き続き、旧長崎刑務所です。何としても残したい一心です!!
さて、この旧長崎刑務所の設計者ですが、山下啓次郎(やましたけいじろう)です。ジャズピアニストである山下洋輔の祖父としても有名です。
山下啓次郎は、1867年(慶応3年)鹿児島県生まれ。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)で辰野金吾に建築を学び、卒業後、警視庁、後に司法省営繕課で技師として、明治の五大監獄と呼ばれる千葉、金沢、鹿児島、奈良、長崎の刑務所や、名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所などの設計を担当します。1931年(昭和6年)没。
・千葉刑務所(明治40年築)は、煉瓦造の管理棟や正門などが現役で使われています。
・金沢刑務所(明治40年築)は、昭和45年の移転にともない解体されましたが、中央看守所と監房の一部、そして正門が明治村に移築され、いずれも国登録有形文化財です。
・鹿児島刑務所(明治41年築)は、昭和61年の移転にともない解体されましたが、保存運動の結果、石造の正門のみが現地に保存されています。国登録有形文化財です。
・奈良刑務所(明治41年築)は、現在も奈良少年刑務所として、煉瓦造の本館や正門などが現役で使われています。
・長崎刑務所(明治41年築)は、平成4年に移転にともない閉鎖され、そのままの形で保存(放置?)され、現在に至ります。今年(平成19年)の6月中に解体予定の計画が発表されています。
・名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所(大正11年築)は、現在、国の重要文化財に指定され、名古屋市市政資料館として活用されています。
旧長崎刑務所は、施設がそのまま残されており、史料としても貴重です。修復・補修して文化財に指定し、何らかの形で現地に保存するべき価値の高い建物群です。
【追記】
山下啓次郎と同じ1867年(慶応3年)生まれには、建築家伊東忠太(帝国大学工科大学も同期)や、文豪夏目漱石、ジャーナリスト宮武外骨、博物学者南方熊楠、そして、海外では建築家フランク・ロイド・ライトなどがいます。
クリーニング屋さん。なだらかな富士型の看板建築です。もっと円が丸ければ、典型的な看板建築なのですが。
りんご史料館(平成13年築)。黒石の郊外にある旧平果試験場本館(昭和6年築)を撮影しに行ったのですが、老朽化ですでに解体されており、同じ基礎の上に復元されていました。平成11年に、アユミギャラリー主催の「近代建築史への旅スケッチ展」青森展に同行して黒石を訪れたときに、バスからちらりと見たことがあります。旧平果試験場本館は、建物全面が蔦で覆われ、まさに幽霊屋敷のような建物でした。イギリスの園芸研究所「イーストモーリング研究所(East Malling Research)」の建物を模して建てられたとか。
以前の建物の写真は、こちらに載っていました。
http://www.mumyosha.co.jp/guide/hakubutu/aomori/ringo.html
http://www.net.pref.aomori.jp/kuroishi/Sight_Seeing/Sig_Ringo_en_shiryokan.html
第二分団屯所(大正9年築)。黒石にはクラシカルな3つの屯所があり、パンフレットなどで町を挙げて自慢としています。この第二分団屯所は、町のT字路の正面にあります。
宮崎県庁舎(昭和6年築)。現在、東国原知事の人気で、県庁舎をバックにした記念撮影の観光スポットとなっています。
先週5月26日午前、北海道小樽市の坂邸が全焼しました。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/28391.html
この建物は、田上義也設計、昭和2年築の洋館で、岩井俊二監督の映画「Love Letter」(平成7年公開)で主人公の家という設定で登場します。
設計者田上義也は、明治32年栃木県生まれ。F.L.ライトの帝国ホテル建設事務所の募集に20歳で応募し、現場でライトやレーモンドに学びます。帝国ホテル完成後、たまたま汽車に乗り合わせた宣教師バチェラーの啓示で北海道に渡り、札幌に個人設計事務所を開設し、道内各地に作品を残しました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~komichi/Home_page/architecture/tanoue.htm
岩井俊二監督の映画「Love Letter」は、中山美穂主演の淡いラブストーリーで、小樽各所でロケが行なわれ、沢山の小樽の近代建築が使われています。なぜか韓国や台湾で大ヒットし、海外からの多くの観光客が小樽を訪れロケ地めぐりをしています。
建物の焼失は、取り返しのきかない悲しい出来事です。せめても、失われた建物に残された物語を映像で呼び起こし、記憶にとどめたいと思います。
映画中、図書室でのエピソードは、小樽ゆかりの作家伊藤整が小林多喜二の思い出として書いているものに似ています。そのエピソードをもとに、小生も高校時代に小説を書いたことがありました(汗)。
アーケードの商店街から横道に入った路地に建つ建物。この厳重な格子は、何の建物だったのでしょう。ちなみに、奥隣りは旧映画館だと思います(現パチンコ屋さん)。
アパート秀峰苑。中津の近代建築で、ちょっと有名(?)な建物です。外観は、どうみても銀行ですよね。旧銀行の転用でアパートというのも、珍しいです。
昨日の旧医院の並びに建つ、これも旧医院か? 10年ほど前に中津を訪れたとき、すでにポーチ部分が傾いていましたが、現在は空家のようです。
旧医院か? 辛島医院や旧小津記念図書館の建ち並ぶ同じ通りに建っています。2軒で1棟を分けています。
旧小津記念図書館(昭和12年築)。国登録文化財。現在、中津市歴史民俗資料館として利用されています。
中津カトリック教会の並びに建つ洋館。この建物も、塗装が?です。彩色が濃すぎるからでしょうか。
旧農業倉庫(昭和2年築)。平成16年に、音楽ホール「リル・ドリーム」として改修し、保存・活用されています。規模の大きな煉瓦倉庫です。
今月、北海道新聞社より『道東の建築探訪』が発行されました。
このシリーズが全6巻だったとは知りませんでしたが(笑)、今回の道東編で完結とのことです。
思えば、1995年に『小樽の建築探訪』が出、その後1997年に『函館の建築探訪』、1999年に『札幌の建築探訪』と続きました。これで終わりか、あるいは旭川か帯広あたりか(でも、1冊にするには物件が少ないかナ~)と思っていたところ、2000年に『旭川と道北の建築探訪』が出版されました。これで、都市以外の場所の建物もフォローすることがわかり、次は道南、道東もあるだろうと期待しておりました。その後、少し時間がかかりましたが、期待通りに2004年に『道南・道央の建築探訪』が発行され、そして今年2007年に『道東の建築探訪』が発行されたのです。
時間がかかってしまったために、発行までの間にも解体されてしまった建物も多く、本当に残念でなりません。しかし、こうして道新(北海道新聞社のこと)のおかげで、北海道の全地域をカバーする素晴らしい写真集が6巻も発行されました。記録としても、探訪者や観光客などの実用としても、とても貴重な資料です。そして、北大の角幸博先生をはじめとする執筆陣の方々に、お礼を申し上げます。素晴らしい本を、ありがとうございました。
他の都府県でも、こうした本が続々と出版されることを期待したいと思います。商売になりますよ(笑)。地元新聞社の方々、どうぞ、よろしくお願いいたします。小生も、全力を挙げてご協力いたしますので。
旧三次銀行本店(昭和2年築)。現在、三次市歴史民俗資料館として転用されています。国登録文化財。
花園金物店。この建物を見つけたとき、三次の町は期待できると確信しました。嬉しくなる看板建築です。
久世教会。入口のポーチや2階の窓上のアーチなどの木部の細工は、確かに古いものですので、あるいは旧の教会の部材を転用しているのかも知れません。
三村医院(大正期築)。久世の商店街のアーケードの中にあります。当初、真新しい感じがして、なんちゃって建築かと思って撮影しましたが、調べてみると大正期の建物とのこと。現役の医院です。
旧遷喬尋常小学校(明治40年築)。国指定重要文化財。映画やCMなどでお馴染みの木造校舎です。勝手に、この校舎は丘の上に建っているものと思っておりました。そして、もっと大きな建物だと、思っておりました。中央部分の2階は、講堂になっています。
よくあるトタン看板の店舗です。雲型定規のような凸部が、中央ではなく右にずらしてあるのが面白いと思います。
高萩市商工会館。昭和20~30年代の建物かと思われます。細い筆記体の書体が面白いです。左右2つの入口から、かつては映画館か銭湯だったのではないでしょうか。2階左右の壁面が曲面を描いています。
石造の部屋と玄関です。石倉が座敷倉になっているというよりも、洋館付住宅の洋館部分が石造でできているというほうが正しいようです。玄関部分の細工も嬉しいです。
大谷石の石倉ですが、手前のテラス状になっている部分が四角い石蔵の原型のようにも思われます。
鈴木藤雄商店。ヘアーサロンいがらしの向かいにある、石造の酒屋さん。平でも多く見かけた、四角いタイプの石蔵です。
ヘアーサロンいがらし。いがらしパーマも併設されています。福島県の平でもそうでしたが、高萩でも大谷石の石倉が多く見られます。このヘアーサロンいがらしの特筆すべきは、石倉に豆タイルで装飾してある点です。
JR高萩駅舎です。美しく補修され、維持されています。いつも、近代建築を見つけたとき、何故ここにこうした建物が建ったのかを考えます。そして、さまざま調べてみます。高萩には、かつて炭鉱があり、その積出し駅として栄えたとのこと。
前回一関を訪問したおり、日没で撮影することができなかった小さな建物です。明治時代の地図を見ると、このあたりは郡役所のあった区画で、現在も向かいは裁判所です。しかし、何の建物なのか見当がつきません。交番か、床屋か。左右対称の整った建物です。
市内の城内で見つけた洋館。木造モルタル塗で、上げ下げ窓。左右非対称である点が興味深いです。東京にあるコンドル設計の旧古河邸に似ていると感じました。
番町の洋館で一番驚いたのが、このベランダ付の洋館です。屋根には、煉瓦の煙突が見えます。長崎や神戸などにある異人館のようです。宣教師館のような建物だったのではないかと思われます。
半田山配水池旧事務所横に建つ、和館の建物。昭和初期の建物かと思われます。由来は不明ですが、現在、植物園内の有料休憩所として利用されています。
半田山配水池一号配水池(明治38年築)、二号配水池(明治38年築)、三号配水池(大正8年築)。
半田山配水池創建量水室(明治38年築)と、増設量水室(昭和14年築)。創建量水室は煉瓦造、増設量水室はRC造です。
三野浄水場旧動力室・送水ポンプ室(明治38年築)。現在、水道記念館として公開されています。
旧第十七師団偕行社(明治43年築)。偕行社とは、旧陸軍の福利厚生施設で、将校の社交場だった建物です。偕行社の建物は、旭川(第7師団)、弘前(第8師団)、金沢(第9師団)、善通寺(第11師団)、豊橋(第15師団)など、結構各地に残っています。ちなみに、旧海軍の同様の施設は水交社です。
旧九州鉄道茶屋町橋梁(明治24年築)。煉瓦の積み方で、表面に装飾を施しています。橋梁部分だけが切り離され、保存されています。
徳養寺。教会と見間違う外観の洋風寺院として有名でした。過去形なのは、現存の建物は、2003年にイメージ保存で建替えられたもの。下は、大正4年築の元の建物(2000年撮影)。
下山の田橋(大正13年築)。鉄筋コンクリート造。『北九州の近代化遺産』には「南山の田橋」とあり、「一見鉄筋コンクリートアーチ橋と見紛いそうになる鉄骨をコンクリートで被覆した」橋とのこと。
南河内橋(大正14年築)。『北九州の近代化遺産』によれば、日本に現存する唯一のレンティキュラートラス橋とのこと。装飾も賑やかで楽しい鉄橋です。
河内貯水池管理事務所(昭和2年築)。貯水池を見下ろす高台に建っています。周囲は木々が繁り、建物を覆っています。
河内貯水池堰堤と取水棟(昭和2年築)。長年の念願適って、ようやく訪問することができました。思えば、1984年刊『近代建築ガイドブック[西日本編]』(鹿島出版会)の裏表紙の写真を見て、日本にこんな石貼りの建物があるのだと驚いたものでした。小1時間歩いて、たどり着きました。
旧寿湯。昨年秋に訪れたときに、廃業のお知らせが出ていました。現在は、販売物件です。南小倉駅前にあります。
旧小倉県庁舎(明治4年築)。『北九州の近代化遺産』によれば、この旧県庁舎説は怪しく、明治23年に小倉警察署として改築されたことが棟札で確認されたとのこと。
中国銀行鞆支店。中国銀行の建物は、新しい建物も様式的デザインで建てられています。この鞆支店もはたして古い建物かどうか心配ですが、スチールサッシやスチールの扉などから、古い建物だと思われます。
現役の写真屋さん。現在は外壁に波板を張っていますが、元は下見板張りだったのではないでしょうか。
友光軒。もともとは理容店だったそうですが、現在は喫茶店となっています。それにしても、モダンなデザインです。
旧邑久中学校講堂(昭和8年築)。牛窓からの帰路、たまたま見つけました。塔屋が明治の建物のようです。塔屋だけ移設したのかも知れません。
1月20日より、埼玉県立文書館では「郡役所・半世紀の光芒-郡長たちのアーカイブズ-」展が開催されています。
http://www.pref.saitama.lg.jp/A20/BA18/shuzouten-190120-52-1.html
郡役所とは、明治11年に政府により設置され、大正12年に廃止された、都道府県と市区町村の間に位置する地方行政の組織でした。
建物としては、県庁などに次ぐ官庁の建物として、全国各地に威厳ある個性的な庁舎が建てられ、現存するものもあります。残念ながら、埼玉県には現存しておりません。
http://www.jmam.net/matikado/gunyakusyo.html
今回の企画展は公文書館の開催ということもあり、公文書の展示が中心ですが、埼玉県内にあった郡役所の写真パネルも展示されています。
ちなみに、埼玉県には18の郡があり、郡役所は複数の郡を組み合わせて、下記の9つがあったとのことです。
・北足立・新座郡役所:浦和宿(現さいたま市)
・入間・高麗郡役所:川越町(現川越市)
・比企・横見郡役所:松山町(現東松山市)
・南埼玉郡役所:岩槻町(現さいたま市)
・北埼玉郡役所:行田町(現行田市)
・北・中葛飾郡役所:杉戸宿(現杉戸町)
・大里・幡羅(はたら)・榛沢(はんざわ)・男衾(おぶすま)郡役所:熊谷宿(現熊谷市)
・児玉・賀美(かみ)・那珂(なか)郡役所:本庄宿(現本庄市)
・秩父郡役所:大宮郷(現秩父市)
見世蔵と煉瓦蔵の間にはさまれた事務所。旭川や小樽などにも、この蔵と蔵の間の事務所の例があります。
塗り分けられた商業ビル。塗り分けは別として、当初から違うデザインで3区分された長屋状の建物だったようです。
表通りを一本入った裏道で、梢の中に胸像が見えました。台座が昭和初期風。建物もいい感じです。庭を見ると、どうも幼稚園のようですが、現役かどうか。
旧煙草元売捌所(昭和初期)の建物。昭和というより、明治の建物のよう。ペンキの色が眩しいです。
いわき駅を出て、最初に見つけたのがこの建物。今日は、なかなか勘が冴えています。函館にでもありそうな商業ビルです。
原歯科医院。現いわき市の中心市街地です。小道さんのブログで、とんでもない建物が沢山残っていることを教えられ、探訪することにしました。日没まで半日歩きましたが、お宝物件が妙に残っています。駅前の再開発ビル工事が痛いです。
昨年ヒットした映画「フラガール」の舞台の町(本当は合併前の常磐市です)でもあるわけですが、映画効果はあまりない感じです(泣)。
広島県の福山市にあるふくやま美術館で、明日より特別展「フランク・ロイド・ライトと武田五一」展がスタートします。会期は、2007年1月13日から3月11日まで。
http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/fukuyama-museum/schedule/special/flw_takeda/
今回の特別展にはずいぶんと力を入れているようで、記念講演会が4回も、そしてシンポジウムも予定されています。
ふくやま美術館では、2004年に特別展「武田五一・田辺淳吉・藤井厚二~日本を意匠した近代建築家たち~」を開催しており、その際の図録が好評でした。
何とか、3月に行きたいと思っています。
旧坂出警察署(昭和12年築)。今年、解体との情報があります。アーケードに隠されていますが、円窓、円形の留置所など、壊してしまうのは惜しい建物です。
角本金栄堂(昭和7年築)。駅前通と交差するアーケード通の角地に建つ、典型的な「まちかどの近代建築」です。
この町家の2階に付いた洋風部分が、洋館の残存なのか、部分の移設なのか、あるいは当初からこのような状態なのか、見当もつきません。
今年の年賀状に載せた温泉津温泉の共同浴場です。総覧には、「旧温泉文化休憩所」とありますが、隣接する共同浴場「藤の湯」の旧館ではないかと思います。
「ロータリー」とは、3叉路以上の交差点内が周回道路となっていて、基本的には信号制御が不要な交差点です。
http://alcyone-pleiades.blog.ocn.ne.jp/canarias/2006/09/post_dbdb.html
フランスの凱旋門の周りとか、中国や韓国などにも見かけますよネ(行ったことが無いので、いずれも映像で)。
国土交通省のHPによれば、日本では「1934年に日本で初めて東京都の和田倉門交差点に設置されて以来、1941年までに43交差点が整備されました」とあります。
http://www.mlit.go.jp/road/soudan/soudan_06_07.html
この43交差点が、いったいどこにあったのか興味があります。現存しているロータリーも、きっとあるはずです。小生が見たことのあるロータリーは、北海道の旭川、釧路、鹿児島県の串木野、そして兵庫県の豊岡のロータリーです。これらが、はたして43交差点の中のものなのかも不明ですが、豊岡のロータリーに出会ったときは感激したものです。
きっと、国土交通省に聞けば、教えてくれるのでしょう……。けれども、それではつまらないので、皆さんの情報を募って地道に調査をしてみようと思います。ご記憶の方、また、情報をお持ちの方、ぜひご協力ください。近代建築ではなく、都市の話ですね、これは。
日本国内環状交差路リスト
http://ismusic.road.jp/rotary/rotary.html
「ロータリー」コレクション
http://glin.jp/nam/rotary.html
ロータリー探訪記
http://tamotchi.skr.jp/geo/rotary/
たずねロータリーのページ
http://civil.eng.toyo.ac.jp/~ozaki/rotary/
旧県立西条清酒醸造支場(昭和4年築)。平べったい建物かと思っておりましたが、回り込んでみると、けっこう厚い建物でした。
旧高市郡教育博物館(明治36年築)。近世の環濠都市、今井町の一角に建つ、和風の近代建築。奈良県指定文化財。
堀川橋(明治36年架橋)。石造のアーチ橋で、登録文化財。堀川は、江戸時代に難工事の末に開削された運河です。
先週11月9日に、登録有形文化財の告示が出ました。
岩手県公会堂
津山郷土博物館(旧津山市庁舎)
今回の有名どころでは、鎌倉の長谷子ども会館が登録されています。あの建物は無指定だったのかと、逆に驚いています。
大開通りの看板建築群。豊岡駅からまっすぐに続くアーケードの商店街で、市役所通りでもあります。
但馬信用金庫本店の隣に建つ建物。てっきり、旧本店の建物だと思っておりましたが、いかがでしょうか。
旧但馬貯蓄銀行(昭和初期)です。気になる建物です。新発見かと思いましたが、中尾さんが詳しくお調べでした。
旧兵庫県農工銀行豊岡支店(昭和9年築)。渡邉節設計の建物です。つい先年まで山陰合同銀行の看板が出ていた印象があるのですが、現在は豊岡市役所南庁舎別館として使われています。市役所の敷地とは道を挟んだ真向かいにあります。
旧豊岡郵便局(昭和2年築)。現在、豊岡市役所南庁舎として使われおり、市役所と同じ敷地内の角地に建っています。
豊岡市役所(昭和2年築)。旧豊岡町役場として建てられた建物です。広い敷地の奥に建ち、車寄せがあり、前庭がありという豪華な建物です。中尾さんのHPにある竣工当時の写真を見ると、3階部分と傾斜屋根は後の増築で、当初は中央部が塔屋になっている2階建ての四角い建物だったようです。
達徳会館(明治29年築)。豊岡高校の敷地内にある旧校舎です。両袖が付いていたのを、保存のために切って今の形になったものと思っておりましたが、中尾さんのHPにある竣工当時の写真によれば、校舎は別棟で、現在の建物はそのままの形です。豊岡に、このような明治の洋館が残されているとは、全く知りませんでした。
坂部医院。中山道沿いで見つけました。外壁を新しく改修しておりますが、構造や屋根は旧のままのようです。それにしても、改修方法が惜しまれます。
JR折尾駅(大正5年築)。鹿児島本線高架化にともない、解体のニュースが流れました。何とか残すことができないことか。
永楽館。明治築の芝居小屋です。戦後は映画館として使われましたが、昭和40年代には閉館となり、ずっと空家だったとか。現在、市の保存・復元事業が入り、2年後には芝居小屋としての再開をめざしています。桟敷、回り舞台、花道などが残っています。
事務所建築。1階部分をスクラッチタイルが覆っています。近くでは、あちこちで機織りの音が響いていましたので、あるいは繊維会社の事務所かも知れません。
旧出石町役場の車寄せ部分。建物自体は解体されてしまいました。この車寄せを眺めると、その解体が惜しまれてなりません。
旧出石郵便局。現在は、そば屋さん兼おみやげ屋さんになっており、お客の途絶えることがありません。
旧出石郡役所(明治25年築)。昭和初期に、当初建っていた町役場の敷地から現在の場所へ移築。その際に、中央ポーチの上にベランダが載っていたのを、現在の姿に改めています。
旧亀城小学校本館(大正15年築)。大中肇設計によるRC建築です。現在、刈谷市郷土資料館として公開されています。
象潟公会堂(昭和9年築)。何か見た目に違和感があったので、郷土資料館の方にうかがうと、基礎を打ち直し外壁を新しくしたとのこと。昔の写真と比べると、壁面の装飾も、少し違っているようです。
「きいろい☆ながれぼしの旅」
http://www7.big.or.jp/~ynisihir/jpg/tohoku/akita/kisakata_cho_kokaido.JPG
川口の看板建築。かつては、もっともっと建ち並んでいたのですが、再開発でその多くがマンションに変わってしまいました。
2004年より始まりました「まちかどの近代建築写真展」ですが、この度、山口県下関市の山口銀行旧本店(山口県指定有形文化財)を会場に開催することが決まりました。
お近くの方は、ぜひお出でくださいますよう、お知らせ申し上げます。
「まちかどの近代建築写真展 IN 下関」
・会期:2006年10月21日(土)~27日(金)(22日の日曜日は休)
10:00~17:00(21日午前に設営、27日午後に撤収)
・会場:山口銀行旧本店(山口県指定有形文化財)
山口県下関市観音崎町10-6
・主催:「まちかどの近代建築写真展 IN 下関」実行委員会
・料金:無料
「近代化遺産全国一斉公開2006」公開事業の関連行事として開催いたします。
永瀬邸(大正11年築)。敷地内に入ることができませんが、かろうじて、大きなステンドグラスがうかがえます。
旧田中徳兵衛邸(大正12年築)。登録文化財です。昨年までお住まいだった建物で、今年より常時一般公開が始まりました。
青森県との県境に近い鷹巣の戸嶋温灸治療院。鉄道わきにあり、車窓から見えた洋館を探し求めて、たどり着きました。
花巻森林組合の事務所です。半円形に張り出したホールの、何とモダンなこと。入口横の受付も、半円形です。
宮沢賢治の童話「黒ぶだう」の舞台といわれる菊池邸(大正15年築)。老朽化による解体のニュースが広まり、現在、保存運動がおきています。
五城目の商店街。メインストリート2本と梯子段状の街並みに、モルタル塗の看板建築群が並んでいます。
渡辺彦兵衛商店(福禄寿酒造)の販売所でしょうか。事務所の向いにある、スクラッチタイルの建物です。
五城目は、最寄りである八郎潟駅から小山を一つ越えたところにある旧城下町です。えびやは、洋品屋さん。
南第2分団のポンプ小屋。青森県や岩手県などではよく見かける屯所・番屋ですが、高田で見つけて嬉しくなりました。飲食店街の中にあります。
円形校舎に続き、次はスターハウスです。
スターハウスとは、昭和30年代、初期の公団住宅などで建てられた、Y字型に3戸を配し交差する中央部分に階段室を設けた団地です。星型住宅、星型団地などとも言われています。各戸共日当りがよく、プライバシーが保たれるという触込みだったようです。と、知ったようなことを書きましたが、じつは小生はまだ見たことがありません。
http://codan.boy.jp/yougo/index.html
スターハウスは、円形校舎と同じ時期のRC造の建物です。一般にRC造のモダニズム建築は「四角い箱」と言われますが、設計者がこれに逆らって、円や星など別の形の建物を建てようとしたのではないでしょうか。
さて、スターハウスと同じY字型の平面を持つ建物で、各辺が長い建物があります。有名なところでは、解体されてしまいましたが旧東京厚生年金病院がそうです。
http://www.yamada-mamoru.co.jp/sakuhin/old-nen/old-nen.html
最近訪問した岩手県紫波町庁舎が、このY字型の建物でした。地図からでも、はっきりとわかります。
http://map.livedoor.com/map/scroll?MAP=E141.10.16.5N39.33.7.3&ZM=12
また、長野県飯田市の合同庁舎も、このY字型の建物でした。
http://map.livedoor.com/map/scroll?MAP=E137.49.56.9N35.30.37.9&ZM=12
また、聞くところによると、北海道帯広市の市役所も、Y字型の建物だったそうです。
http://attcom.seesaa.net/article/6561942.html
この、辺の長いY字型の建物は、昭和30年代の一時期、庁舎として流行したのではないかと考えました。学問的には何と呼ばれている建物なのかはわかりませんが、仮に「Y型庁舎」と呼びたいと思います。
このY型庁舎は、円形校舎とセットで建てられる例があります。帯広がそうですし、飯田もそうです。
きっとほかにも、Y型庁舎が存在する(した)と思われます。皆さんのご近所などの情報を、ぜひお寄せください。
なお、Y型庁舎は、辺から辺への移動距離が長くなりますので、横の連絡がとりにくい、まさに「お役所的建物」だったのではないかと思われます。居住性はよいでしょうが。
先週8日の官報に、登録文化財の登録抹消の告示が出ておりました。沼津の松本家住宅、京都の旧西陣電話局、神戸の布引ダムです。
旧西陣電話局
これまでにも、登録文化財の登録抹消は、重要文化財などへのいわゆる「格上げ」にともない行なわれております。登録文化財と重複での指定ができない(らしい)ので、まず登録の抹消が行なわれ、後日、重文など他の指定となる例をいくつか見てきました。「格上げ」以外の理由での自発的な登録抹消は、北海道士別市の旧岡崎医院だけと聞いております(維持困難のため解体)。やむを得ぬ登録抹消は、例えば横手市の旅館平利が火災で全焼し、登録が抹消となっております。
今回の登録抹消は、4月に重文の答申が出されておりますので、重文「格上げ」にともなうものかと思われます。
なお、重文ならば官報にも出ますので、登録抹消の理由も調べやすいのですが、都道府県や市町村の文化財への「格上げ」の場合、なかなか情報が見つかりません。登録抹消が、「格上げ」によるものか解体によるものかと、無用な心配をしないでよいように、ぜひ登録抹消の理由も告示して欲しいものです。
旧高田座(明治44年築)。現在も、高田日活という映画館として営業中です。表通りから少し奥に入ったところに建っています。
旧日本石油会社柏崎工場(明治42年築)。かつて工場敷地には、多くの赤煉瓦の建物が建っていたそうですが、現在は広い更地の敷地にこの1棟のみが建っています。
8月24日の官報で、鹿児島県瀬戸内町の「奉安殿」6棟が登録文化財に登録されました。
これを機に、現存する「奉安殿」を調べてみようと思い、ネット検索で確認できたものをリストアップしてみました。「奉安殿」には、独立棟型と屋内型とがありますが、このリストは「独立棟型」に限定したリストです。
http://www.jmam.net/b/kindai/houanden.htm
調査前の予想では、各県に2~3棟平均として、現存する「奉安殿」は100~200棟程度ではないかと考えておりました。しかし、調査を進めてみると、結構残されている感触です。
「GHQにより解体」とばかり思い込んでおりましたが、「解体」ではなく「撤去」の命令だったようですね。
現存する「奉安殿」は圧倒的に神社型のものが多く、神社・寺院などへ移築・転用されています。個人的には、ギリシャ神殿風などの神殿型が好きです。調査前に、小生が目にしていた「奉安殿」はすべてこの神殿型でしたので、神殿型のほうが多く残されていると考えておりました。
リストの記載事項の不備、また、未掲載の現存「奉安殿」の情報などをお寄せいただければ幸いです。
旧紫波郡役所。紫波町役場の敷地内(駐車場)に現存し、現在も利用されているようです。ちなみに、紫波町役場の庁舎はY字型の建物です。スターハウスの類でしょうか。
昭和30年代に、全国で100カ所ほど建てられた「円形校舎」ですが、現在、そのほとんどが解体されてしまっています。
旧明倫小学校(鳥取県倉吉)
数年前に、「円形校舎」のページを立ち上げ、全国の円形校舎リストを作り、情報提供を呼びかけました。円形校舎に学んだ方々にとって、円形校舎はとても鮮烈な印象を残しているようで、多くの情報をお寄せいただきました。
http://www.jmam.net/b/kindai/enkei.htm
「円形校舎」でブログ検索をすると、同窓会があったり帰省したりで、円形校舎に再会した思い出が語られています。まだ、リストアップできていない円形校舎も多々あるようです。
引き続き、円形校舎の情報を求めます。円形校舎で学んだ方はもちろん、近所にあったという情報、また、円形校舎で教鞭をとったという方の、円形校舎についての印象などもお寄せいただければ幸いです。
今日の官報(号外)に、登録文化財の告示が出ていました。
http://www.jmam.net/b/kindai/touroku49.htm
東京の国際文化会館や、群馬の法師温泉、JR西岩国駅駅舎などが登録文化財となっています。
JR西岩国駅駅舎
今回、面白いと思ったのは、鹿児島県の瀬戸内町が、町内の奉安殿をまとめて6件も登録していることです。奉安殿の登録は、今回が初めてではないでしょうか? 今後、各地で奉安殿の登録が進むかも知れません。
奉安殿については、近代建築探訪メーリングリストの仲間である忠太さんのページに、詳しくまとめられています。
http://homepage1.nifty.com/tanboh/hoan01.htm
西知恵島公民館(昭和31年築)。敷地内の石碑に、築年が昭和31年とあり、驚きました。もっと古そうに思えるのですが。
前村姓関わりで、「前村洞和」という絵師の存在を知ったのは、河鍋暁斎の自伝の記述からでした。土佐藩お抱え絵師で、江戸の本郷に居を構えており、河鍋暁斎の師であったと(河鍋暁斎も本郷在)。
知り得たのはこれだけの情報だったのですが、それからというもの「前村洞和」はどんな絵を描いていたのかをぜひ見たいものだと思っておりました。
ちなみに、河鍋暁斎と言えば、日本近代建築の父であるジョサイア・コンドルの日本画の師匠として有名ですよね(先日、ようやくジョサイア・コンドル著『河鍋暁斎』を読み終えたところです)。前村洞和から見れば、コンドルは孫弟子ということになりますか。コンドルの号は「暁英」。
さて、「前村洞和」で検索していたところ、遠藤英彰さんの「人生の謎学」ブログに、思わぬ記述を見つけました。
http://synch.at.webry.info/200605/article_5.html
「土佐の絵金」こと金蔵も、前村洞和の弟子であったと(洞意の号が与えられたとのこと)。河鍋暁斎の兄弟子にあたります。土佐関わりであり、絵のタッチなども似ているとは思っておりましたが、絵金と河鍋暁斎は、前村洞和によって繋がるとは。
高知県香南市赤岡町では、毎年夏「絵金祭り」が開催されており、ぜひ一度見に行きたいと思っておりました。何だか絵金も、少し身近に感じられるようになりました。
http://www.kochi-shokokai.jp/akaoka/ekinmaturi.html
旧武生市公会堂(昭和4年築)。こんなアール・ヌーボーのデザインの建物が武生にあるとは、驚きです。
旧中村商店(明治45年築)。再開発で空地となった駅前の区画のとなりにあり、とても目立ちます。
旧味湾海倶楽部(昭和5年築)。手前に、町家の建物が接続しています。現在、ドレスメーカー学院として使われていますが、どんな建物かわかりませんね。『近代建築ガイドブック』の写真でも、かろうじて飾りの付いた建物の外観が見えますが、現在は外壁をすっかり覆ってしまっています。屋上には、八角形の展望台があるとか。
旧福井警察署(明治32年頃築)。大きな寺院の敷地内に移築され、丈生幼稚園の園舎として使われています。木々が繁り、建物の全貌が写りません。
旧道から少し奥に入ったところにある教会。案内して下さった仙道田さんは、戦後ではないかと。小生は、昭和1ケタと思いたいのだが。細かい時間のかかる手仕事ばかりの建物です。
先日の建物と同じ通りにある、堀内写真館。左手には、屋根がガラスになっている写場が見えます。
須玉の市街地に建つ、旧須玉郵便局。道の向い側に新しい局舎が建てられ、現在は空家となっています。
町村合併により山梨県北杜市となった須玉町津金地区にある、旧津金学校校舎(明治8年築)。藤村式の学校建築です。現在は、須玉歴史資料館となっています。同敷地内に、一時は大正、昭和の木造校舎が並び建っていたとか。
寺院の門。よく見かけるタイプの門ですが、完全な形のものを初めて見ました。あるいは、別の公共建築の門の転用かも知れません。
恵美写真館と同じ筋でみつけた物件。戦後かも知れませんが、洋裁学校などの公共の教室風。ポーチの柱が、豆タイル貼です。
恵美写真館洋館の表門と洋館(明治38年築)。総覧にある、設計・施工イスルギヤとは、外人の名かと思っていましたが、石動という左官屋さんとか。
横山写真館(昭和4年築)。スクラッチタイルと、切り抜き文字が美しいです。旧鯖江地方織物検査所の建物の斜向かい、神社の参道にあります。
旧鯖江地方織物検査所(昭和10年築)。デザイン的にも、年代のわりには、古めかしい感じがします。
旧下関郵便局電話課(大正12年築)。旧下関市役所第一別館として使われた後、解体の危機にありましたが、現在、活用のためにプロジェクトが展開中です。どんな活用を行っていくか楽しみです。
三角西港の高台にある、旧宇土郡役所。明治35年築。現在、九州海技学院として使われています。
青い理髪舘(旧小林理髪舘)。大正12年築。登録文化財。理髪店の内装のまま、喫茶店とギャラリーとして活用されています。
旧長崎税関口之津支署庁舎。明治32年築。現在、口之津町歴史民俗資料館として公開されています。
旧長崎刑務所の事務所棟。この建物はまだマシですが、他の建物は屋根が崩れはじめており、早急に対処する必要があります。
旧長崎刑務所の門です。山下洋輔の祖父、山下啓次郎の設計と言われています。現在、刑務所は移転し、空家なのですが、門は閉ざされ、高い煉瓦塀に囲まれた広い空間がポッカリと残されています。
寺院の庫裏です。しかし、この車寄せや建物の長い窓などから、何かの役所の建物だったのではないかと思われますが、いかがでしょう。
旧郷土館陳列室。登録文化財に登録されました。残念ながら、連休中は休館で、敷地に入ることもできませんでした。
登録文化財に登録された、山田の凱旋門。日露戦争の際の、凱旋兵士を迎えるために建てられた石造の門。念願適って、今回訪問することができました。
門司の駅裏にある、旧サッポロビール門司工場事務所棟。現在、門司麦酒煉瓦館として公開中。サクラビールの貴重な資料が展示されています。
旧甲府郵便局。昭和4年築。「日本近代建築総覧」には、逓信省山田技師設計とありますが、これは山田守のことか? 鹿児島のNTTに似ています。
山梨県庁南別館。旧山梨県立図書館。昭和5年築。当時流行の流線型の階段室、丸窓、入口の庇受けや受付の窓など、マニアにはたまらない建物です。
本日、4月22日より、「まちかどの近代建築写真展in甲府」が開幕いたしました。現地の実行委員会の皆さんには、立て看板やポスター、案内状など、いろいろなものを沢山作っていただきました。また、地元オリジナルで、山梨県の近代建築の写真も、用意していただきました。初めて見る建物も多く、大収穫です。
会場は、甲府駅より徒歩5分ほどの甲府カトリック教会講堂。会期は、4月30日までです。
お近くの方々、ぜひ、お運びください。
旧市街へ向かう途中で見つけた、森の中の洋館。この建物に気付いたときには、声をあげてしまいました(笑)。
旧柳田國男邸。東京の成城にあったものを移築。どことなく、岐阜にある武田五一の名和昆虫館に似ています。
旧飯田測候所の敷地内にある附属棟。奉安殿のようでもあり、しかし、測候所には奉安殿は不要でしょうから、電気室や機械室でしょうか。
今日の官報に、登録有形文化財(建造物)の告示がでました。
有名どころでは、小樽駅や、松山地方気象台(旧愛媛県立松山測候所)などが入っています。
先月も告示があり、2カ月続けての告示です。これまでは、年に4~5回の告示でしたが、今年からは毎月になるのでしょうか、文化庁さん。嬉しい悲鳴です。
どのくらい前の建物かわかりませんが、伊東忠太の築地本願寺系の寺院です。けっこう各地に、この手の寺院があります。
旧林療院の別棟になっているレントゲン棟。大正の建物。壁には鉛が埋め込まれているとのことです。
先日ご報告した告示に続き、12月27日にも再び告示がありました(文部科学省告示第184号)。
この告示を受けて、現在までの登録有形文化財の件数を、各都道府県別に集計したのが下記の表です(『総覧登録有形文化財建造物5000』より抽出)。
都道府県 | 件数 |
北海道 | 64 |
青森 | 50 |
岩手 | 57 |
宮城 | 52 |
秋田 | 124 |
山形 | 83 |
福島 | 78 |
茨木 | 201 |
栃木 | 131 |
群馬 | 147 |
埼玉 | 91 |
千葉 | 63 |
東京 | 193 |
神奈川 | 110 |
新潟 | 195 |
富山 | 72 |
石川 | 144 |
福井 | 43 |
山梨 | 52 |
長野 | 254 |
岐阜 | 65 |
静岡 | 105 |
愛知 | 212 |
三重 | 52 |
滋賀 | 231 |
京都 | 204 |
大阪 | 326 |
兵庫 | 213 |
奈良 | 94 |
和歌山 | 81 |
鳥取 | 82 |
島根 | 44 |
岡山 | 100 |
広島 | 64 |
山口 | 46 |
徳島 | 59 |
香川 | 283 |
愛媛 | 69 |
高知 | 208 |
福岡 | 40 |
佐賀 | 50 |
長崎 | 49 |
熊本 | 76 |
大分 | 114 |
宮崎 | 29 |
鹿児島 | 20 |
沖縄 | 10 |
計 | 5130 |
半日ほど、久しぶりに岐阜を歩いてきました。
武田五一設計の旧加納町役場。登録文化財に登録され、市民ギャラリーとして活用されることが決まっています。
路地に入ったところで見つけた物件。
こちらも、大通りから一本入ったところで見つけた物件。最初、映画館かと思いました。
旧岐阜貯蓄銀行本店。
旧岐阜県庁舎。こういうタイプの県庁舎が残っているのは、もう数カ所になりました。
旧日下部合資会社。かつては、引きの撮れない場所だったのですが、真向かいが駐車場となり、引き放題です。
旧日下部合資会社の並びにある物件。
旧日下部合資会社の斜向かいにある物件。廃墟然とした建物だったのですが、レストランとして生まれ変わり、見違えておりました。
武田五一設計の名和昆虫研究所記念館。
同じく、武田五一設計の名和昆虫博物館。
昨日、約半年ぶりに「登録有形文化財」の告示が出ました(文部科学省告示第165号)。先にご紹介した、静岡県小山町の豊門会館等も、今回の告示で登録されています。
これで、登録有形文化財は5,000物件を超えることになります。今年10月6日、それを記念して、文化庁のイベントも行なわれました。ちなみに、10月6日は「登録有形文化財の日」なのだとか。
登録有形文化財制度ができて9年で、5,000物件。これは、決して多い数字とは言えないでしょう。もっと登録のペースをあげなければなりません。
上記で、「約半年ぶり」と書きましたが、正しくは4カ月ぶりでした。ずっと登録有形文化財の告示が無かったような気がしておりました。今回の告示を、心待ちにしていたからなのでしょう(笑)。
静岡県小山町へ行く途中、御殿場線の乗換で1時間近く待ち時間があったので、国府津の町を歩いてみました。ウワサには聞いておりましたが、看板建築のオンパレードです。
引き続き、静岡県小山町の豊門会館です。
和館の玄関部分。「豊門会館」は、旧和田豊治家住宅として、明治42年(1909)頃に東京向島に建設され、大正14年(1925)に現地に移築されたとのこと。関東大震災直後の移築です。震災に耐えたのだとか。
こちらは、いわゆる洋館付住宅の洋館部分。洋館の玄関があり、洋間が3間もあるという点で、他の洋館付住宅とは一風変わっています。これは、和田豊治がアメリカで苦学した経験があったからではないかとのことでした。
「旧豊門青年学校」の塔屋部分。「旧豊門青年学校」は、大正末~昭和初築で、学校として建てられた建物。塔屋の先に、ほんの少しだけ銅板葺の屋根が載っているのが、小生の好みです。
「豊門公園噴水泉」。「旧豊門青年学校」のアプローチ上にあります。いずれも、登録有形文化財に登録されています。
先月ご案内した、静岡県小山町の豊門会館の一般公開に行ってきました。
この写真は、「旧青年学校」の窓。まるで、ステンドグラスのようです。
こちらは、塔屋への階段の手すりの柱。日大名誉教授の山口廣先生のお話によれば、典型的なアールデコのデザインで、日本には結構あるデザインだとか。
御殿場の隣町の小山町にある、豊門会館。その敷地内には、和館、洋館などがあり、この度、登録文化財に登録されました。
写真は、同じ敷地内にある旧豊門青年学校の建物。いかにも、といった洋館です。
来る11月12日(土)、13日(日)に、登録文化財登録記念の一般公開が行なわれます。13日には、神奈川大の西和夫先生や、日大名誉教授の山口廣先生の講演会も開催されます。
この建物を最初見つけたとき、何の建物だろうと思いました。映画館かとも思いましたが、煙突があることから、銭湯だと納得しました。何とも立派な建物です。戦後の大火で焼けた後の建物でしょうが、銭湯に、こんなに大きな建物が必要なのかと思います。銭湯の需要が高かったのでしょう。
この連休、北の方面へ行っておりました。
この写真は、秋田県の能代で見つけたパン屋さん。能代は、戦後2度の大火があり、町の大半が焼けてしまったのだとか。このパン屋さんは、1度目の大火で焼け、その後建てたもの。昨年、映画のロケで撮影されたとのこと。
今回の中越探訪の最終地、長岡です。昨年の地震での被害はいかばかりかと心配しておりましたが、ざっと見渡したところでは、全く問題のないようです。駅近くにある「長岡戦災資料館」の入口横に、先年解体された長岡日赤の扉が保存されておりました。
昭和2年築の長岡の配水塔。赤い帽子のような屋根が、家並みの間から望めます。
現在、配水塔のある上水場は、水道公園となっています。そこにある、旧ポンプ室。
管理室。
水道公園から駅へ向かう途中で見つけた寺院。カッコイイでしょう?
中越の続きで、三条です。昨年の水害、そして地震とで、大きな被害がありましたが、しっかり復興しておりました。西本願寺三条別院という、とても素敵な建物があったのですが、数年前に解体したとのこと。残念でなりません。
北三条駅前にある医院。このあたりが、三条の旧市街の中心にあたります。
現役の医院。
こちらも、現役の医院。
郷土資料館の建物。まるで、寺院のようです。
店蔵ですが、軒を支える飾りが、アールデコです。
東三条駅へ向かう途中で見つけた、煉瓦倉庫。
美容院に使われております。
昨日に続き、中越の加茂です。道路の拡幅工事で、道の両側を削っているため、新品の家並みがずっと続きます。その果て、工事が未着の部分に下の旧銀行の建物がありました。
旧銀行の建物。ドアのところにベニヤ板が打ち付けられ、基礎の部分も腐ってきています。
何の用途の建物か。2階の見晴らし台のようになっているベランダ状の部分のみペンキを塗っていないのも不思議です。
民俗郷土館の建物。かつて、町中にあった個人寄贈の図書館の建物を、移築したのだとか。
昨日、新潟県の中越地区を歩いてきました。まず、新津から。
市役所そばで見つけた「風俗の洋館」です。キャバレーになっている洋館は、珍しいのでは?
こちらは、駅前通りの事務所。タイルの色が綺麗でした。
旧銀行。
現役の医院。地震によるものか、車寄せの左側が50センチくらい下がったままです。建物全体も、左側に下がっているように見えます。
本荘の隣町である仁賀保町にある松野医院の建物。本荘もそうでしたが、驚くべきことに、今も現役の医院です。大正8年築。仁賀保の駅前にあります。
(2005年7月撮影)
伊予鉄道三津駅(昭和7年築)
山谷運送部(大正末築)
石崎汽船(大正14年築)
前田海運
濱田医院
(2005年8月撮影)
武雄温泉の横道に入ったところで見つけた建物。医院か、役所ではないかと思われます。
武雄温泉の楼門そばにある水月堂菓子店(昭和7~8年築)。
辰野金吾設計の武雄温泉楼門(大正4年築)。この度、重要文化財に指定されました。
同じく、辰野金吾設計の武雄温泉新館(大正4年築)。屋根も落ちて廃墟寸前でしたが、この度修復も終わり、重要文化財となりました。
(2005年8月撮影)
このお盆休みに、約半年ぶりに、愛媛県の道後温泉へ行ってきました。
ここ数年、温泉をめぐるさまざまな問題が表面化し、道後温泉でも温泉に塩素を入れることが決まり、議論が沸騰しておりました。それが、いよいよ今年より実施されたのですが……。
専門的な議論は素人にはわかりませんが、明らかに泉質が変わっていることが実感できます。泉質が妙にサラサラなのです。以前は、石鹸を洗い流しても、石鹸の成分と温泉の成分によるのでしょう、ヌルヌル感が残るような状態だったのですが、今回は、全くそのようなことがありません。まるで、銭湯のような感覚です。
塩素を加えても大して温泉成分に変化はない、という分析結果が貼り出してありましたが、塩素臭がするとかいう点以外にも、明らかな違いがあります。
道後温泉本館の入泉料も値上げされておりました。本館近くの椿の湯は、旧来通り値段据え置きです。同じ源泉ですから、温泉に入るのなら、椿の湯のほうが、空いていて良いです。
道後温泉の塩素の投入は、今後、もっと問題となることでしょう。
ネットで検索してみると、「塩素殺菌による温泉水の変化」という、日本温泉総合研究所の報告もありました。
写真は、2001年12月に撮影した、道後温泉本館です。
今日、仕事を終えてから、夜行列車(ムーンライトながら)で旅に出ます。
行き先は、まず、石川県の山代温泉、鳥取県の三朝温泉で、それぞれ「武田五一展」向けの写真撮影や取材など。次に、愛媛県の松山へ行って、これは当然、道後温泉です。三津浜も歩いてみたいと思っています。さらにさらに、福岡県へ行って、『九州遺産』の地を訪ねようと思っています。8月12日の晩から8月17日までの5泊6日(すべて車中泊です(笑))。
時間があれば、帰りがけに「愛・地球博」にも寄ってこようかと……。これは、欲張りすぎですネ。
晴れてくれれば良いのだけれど、はたして、どうなりますことか。
武田五一が、3つの温泉地の共同浴場に関わっていたことは、すでに述べました。
小生は、「武田五一が温泉好きだったのではないか」という仮説を考えました。昨日、近代建築探訪MLの仲間であるチュ~太郎さんにお会いしたおり、著名建築家による共同浴場の事例はあるだろうかと尋ねたところ、辰野金吾と武雄温泉(大正4年築)、岡田信一郎と城崎温泉「一の湯」「まんだら湯」(昭和3年築)などの例があると、即答を得ました。さすがチュ~太郎さんです。
武田五一の共同浴場は、昭和4年の山代温泉、昭和5年の山中温泉、そして昭和9年の白浜温泉ですので、岡田信一郎の城崎温泉の例に影響を受け、武田五一に依頼があったというのが本当のところかも知れません。しかも、どちらもRC造の和風の共同浴場です。ライバル心もあったかも知れません。
しかし、何故か東日本の温泉地の共同浴場には、著名建築家の関わった共同浴場というのを聞きません。
写真は、辰野金吾設計による佐賀県の武雄温泉楼門です。この度、国の重要文化財の指定が決まりました。
武田五一に関係する温泉には、もう一カ所、鳥取県の三朝温泉があります。
三朝は「みささ」と読みます。鳥取県の中央部、倉吉の南に位置する温泉地で、世界屈指のラジウム泉として有名です。かつては「放射能泉」と宣伝しておりましたが、放射能では忌諱する方もあるようで、現在では「ラジウム泉」となっております。
さて、この三朝温泉の武田物件は、昭和9年の三朝橋(三朝大橋)と、その橋の突き当たりにある温泉旅館万翠楼です。三朝橋は、平成9年に登録有形文化財として登録されましたが、万翠楼は新築され、残念ながら現存しておりません。
三朝橋は温泉街の中央にあり、RC造ながら、青御影石の欄干や擬宝珠、石燈籠など、本格的な和風の橋のデザインとなっています。大変交通量の多い橋で、欄干が壊れたりする事故が頻繁にありますが、その都度、ちゃんと修復されております。橋のたもとには無料の露天風呂があり、橋から丸見えですので、交通事故多発の一因かも知れません。
万翠楼は、木造3階建で、望楼あり、大きな唐破風の車寄せや千鳥破風あり、各階に朱の手摺りを巡らせと、大変にぎやかな目立つ建物だったようです。武田五一研究者の小林淳男さんがおっしゃるには、同じく武田五一の設計である大阪城に、部分的に雰囲気が似ているとのことでした。三朝橋の突き当たりにあり、両方を一体としてデザインしたものと思われます。
「武田五一と温泉」というテーマを与えられて、いろいろ調べています。
この写真は、石川県山中温泉の総湯(共同浴場)「菊の湯」です。武田五一設計、RC造で、昭和5年の建物でしたが、残念ながら老朽化で解体されました。平成4年に、旧の建物を復元して新築されました。この写真は、昨年夏に撮影してきたものです。
外観は、共同浴場とは思えない、まるで寺院のような建物で、軒先には風鐸まで付けられています。内部は、外観とはうって変わって、柱や天井にRCの構造がそのままむき出しでした。長細い建物の両側に出入口があり、内部は3室で、中央に浴室1室、各出入口に脱衣室がそれぞれ1室という構成でした。左右の脱衣室のいずれからも、同じ浴室に入る形です。おそらく、建築当時は混浴だったものと思われます。その後、男湯専用となっており、女湯はとなりにあった福祉センターの浴場を利用しておりました。
平成14年に、広場を挟んだ向かいに、この「菊の湯」とそっくりな女湯専用の共同浴場の付属した施設「山中座」が新築されました。
この秋、文京ふるさと歴史館で「建築家・武田五一展(仮称)」が開催されます。
この企画展は、東京都文京区の文京ふるさと歴史館と、愛知県名古屋市の名古屋市立美術館の共催によるもので、これまで未公開だったものなども沢山展示される予定です。
・文京ふるさと歴史館「建築家・武田五一展(仮称)」
2005年10月22日~12月 4日
・名古屋市立美術館「名古屋近代建築運動史の群像I 武田五一-建築意匠と装飾-」
2006年 1月28日~ 3月26日
小生も、市民協力者に入れてもらってお手伝いをしており、図録に載せる小文などを書いております。以後、文章を書くにあたって見つけた面白い情報などを、お知らせします。ご期待ください。
話の順番が逆になってしまいました。武田五一が関わった温泉は、現在のところ3つが確認されています。これは、武田五一マニアの小林淳男さんの労作によります。
・石川県山代町「山代温泉共浴場」昭和4年
・石川県山中町「山中町営共同浴場(総湯「菊の湯」)」昭和5年
・和歌山県白浜町「崎の湯」昭和9年
これらは、残念ながら、いずれも現存しておりません。
山代温泉と山中温泉は、同じ加賀温泉郷にある隣町です。当時、山代温泉、山中温泉、そして和歌山県の白浜温泉共、鉄道が発達し、大阪から半日程度で行けるようになって賑わいはじめた温泉地でした。南と北ですが、大阪からの距離では同じような位置にある温泉地です。
和歌山県白浜温泉の「浜の湯」の建物も、武田五一の建物の特徴があり、あるいは武田五一物件かも知れません。また、同じ昭和初期の共同浴場としては、島根県江津市の有福温泉「御前湯」が現存しています。写真は、昨年小生が撮影してきた「御前湯」です。武田五一とは関係のない建物ですが、同時代の共同浴場として、白浜温泉「浜の湯」と似た点が見受けられます。
「まちかどの近代建築写真展」が東京で開催されます。
昨夏札幌駅コンコースで、秋には山形県長井市の旧郡役所で開催した「まちかどの近代建築写真展」ですが、今年11月、東京都文京区のシビックセンターで開催することが決定しました。
「まちかどの近代建築写真展」とは、小生も参加している「近代建築探訪メーリングリスト」の有志が中心となって、日本全国の近代建築の写真を持ち寄り、皆さんに見ていただいている写真展です。とくに、文化財などの有名な建物ではなく、まちかどにある、身近な建物を紹介したいと考えております。
現在、文京区開催にあたり、文京区の近代建築の写真も展示しようと、時間を見つけては撮影を行なっております。
詳細が決まりましたら、お知らせいたします。皆さまには、ぜひ、お出でいただきたく、ご案内申し上げます。
「円形校舎」という建物がございます。
といきなり書いても、わからない方にはちっとも見当がつかないかも知れませんが、昭和30年代に日本各地で、全部で100棟くらい建てられた学校の校舎です。「円形校舎」というくらいで、真上から見るとドーナツ型をした建物で、各教室はバームクーヘン(正式には独語でバームクッヘンか)を切り分けたような形状になっております。
昭和30年代に各地で建てられたのですが、その後すっかり廃れてしまって、とんと新築されたという話は聞きません。しかし、この円形校舎で学んだ方や、地元に円形校舎があったという方にとっては、とても印象深い建物だったようでして。
それが、ここ最近、老朽化・耐震化で、建替えという話が進んでおります。それに加えて、少子化による廃校も。現役で使われている「円形校舎」は、もう30棟を切るのではないでしょうか。
「円形校舎」について、以前、ちょいとまとめてみたことがあります。
「円形校舎」
一時流行った建物が、消えて行くというのも、寂しいものです。
先日、知人と話をしておりましたら、「母校が円形校舎だった」という、何とも奇遇な出会いもございました。
群馬県伊勢崎市の旧伊勢崎市立女子高校のように、市で転用して保存することになった事例などは、本当に珍しいことです。
「うちの近所にも、円形校舎があったよ」という方、「円形校舎で学んだよ」という方、ぜひどんな風だったのかを、お知らせください。
先月、高知県で発行された『高知遺産』という本が、地元で大ヒットしているようです。
自費出版で、2,000部発行のこの本、今月中旬に2,000部増刷が決定、6月1日出来とのこと。
こうした本が、各地で出版されると、面白くなるのですが……。
注文は、下記のフォームから。小生も、注文してしまいました。
「竹筋コンクリート」って、ご存じですか?
近代建築マニアの間では、岩国の「徴古館」という博物館が、昭和20年築の竹筋コンクリート造の建物として有名なのですが、これ以外の現存建築があるかどうかについて、興味を持っています。
実は先月、岩手県の一戸という町で、竹筋コンクリート造の旧銀行の建物に出会いました。確かなことはわかりませんが、竹筋コンクリート造であると伝えられているそうです。
土木系では、橋などで、竹筋コンクリート造のものがいくつか残っています。登録文化財になっている熊本県小国町の旧国鉄宮原線のアーチ橋などがそうです。他にも、九州各地や北海道などで、竹筋コンクリート造と伝えられている橋梁があります。
竹筋コンクリートは、戦前から戦中にかけて、金属不足のために、鉄筋の代わりに竹を代用したもので、そこそこ強度はあるようなのですが、造られてから長い年月が経って、果たして強度が落ちていないのか?
ご近所に、竹筋コンクリートの建物があるという方、ぜひお知らせください。とても貴重な建物です。