日本各地の近代建築探訪など
「まちかどの近代建築写真展in 上山」(通算第68回)
テーマ「可愛いからモダンまで 病院建築」
会期:2017年9月30日(土)~10月7日(土)
午前9:00~午後5:00(最終日は午後4:00まで)
※10月7日午後3:00~4:30にギャラリートークを開催します。
会場:長屋門ギャラリー(山形県上山市十日町2番8号)
入場料:無料
主催:NPO法人上山まちづくり塾
協力:長屋門ギャラリー運営委員会
まちかどの近代建築写真展実行委員会
近代建築探訪メーリングリスト
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「まちかどの近代建築写真展」も、今回で第46回を迎えることとなりました。
埼玉県入間市の「入間市文化創造アトリエ アミーゴ」にて、約2か月間にわたり「まちかどの近代建築写真展」を開催いたします。前期は「郵便局」を、後期は「駅舎」を展示いたします。
会場の「入間市文化創造アトリエ アミーゴ」は、昭和12年築の旧埼玉県繊維工業試験場入間支場の建物などを利活用した施設です。
「まちかどの近代建築写真展in仏子アミーゴ」第46回
会期:2015年6月7日(日)~7月26日(日)
会場:入間市文化創造アトリエ「アミーゴ」
(埼玉県入間市仏子766-1)
交通:西武池袋線仏子駅下車徒歩5分
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◆名称:「まちかどの近代建築写真展in藤村記念館IV」
◆主催:NPO法人甲府駅北口まちづくり委員会、甲府市教育委員会
◆協力:近代建築探訪メーリングリスト、まちかどの近代建築写真展実行委員会
◆会場:甲府市藤村記念館(甲府駅北口・よっちゃばれ広場)
◆会期:2013年9月21日(土)~10月14日(月・祝)、月曜休館(祝日の場合は翌日)
◆時間:午前9:00~午後5:00(最終日は午後4:00まで)
◆入場料:無料
第28回目となる「まちかどの近代建築写真展」。
今回は、埼玉県志木市での開催です。埼玉県内だけの近代建築を集めての展示ですが、これもまた思わぬ発見があったりして楽しい展示になりました。
会期も、あと今日1日だけですが、ぜひお越し下さい。
◆名称:「まちかどの近代建築写真展in志木」
◆主催:社団法人日本建築学会関東支部埼玉支所
NPO法人東上まちづくりフォーラム
まちかどの近代建築写真展実行委員会
◆協力:近代建築探訪メーリングリスト
◆会場:志木サテライトオフィスセンター
(東武東上線柳瀬川駅西口徒歩1分)
◆会期:2012年11月10日(土)、11日(日)
◆時間:10日(土) 午前12:00~午後4:00
11日(日) 午前10:00~午後4:00
◆入場料:無料
旧国鉄大宮工場燃料用倉庫(明治30年築)。何回かここの前を通っているはずなのに、今日まで気付かずにおりました。
旧八十五銀行松山出張所倉庫。保岡勝也設計で、昭和初期築のRC造3階建。内部は太い4本の円柱が梁を支えています。担保にとった繭を保管するための倉庫とのこと。この倉庫の前には、事務所棟も建っていたのでしょう。どんな建物だったのか。
外観のペイントは、ぜひ消して欲しいものです。
黒島教会堂。明治35年(1902年)築。マルマン神父設計、前山佐吉ほかの施工による煉瓦造の教会堂。国指定重要文化財。連絡船で50分かけて黒島へ渡り、アップダウンのある野道を歩くこと30分。だんだん見えて来る天主堂の美しいこと。教会の後ろに周ると、どこかの写真集で見た円い煉瓦積みがありました。
「まちかどの近代建築写真展in上尾」がスタートしました。
今回は、全国の煉瓦建築特集です。300点強の写真を展示しております。
また、関根要太郎研究室@函館さんによる関根要太郎の簡単な略歴と戦後上尾で行った活動内容の展示も用意いたしました。
◆名称:「まちかどの近代建築写真展in上尾」
◆主催:まちかどの近代建築写真展実行委員会
◆協力:近代建築探訪メーリングリスト
◆会場:上尾市役所ギャラリー
埼玉県上尾市本町3-1-1(市役所東棟1階)
◆会期:2012年8月8日(水)~8月14日(火)
午前10:00~午後8:00
但し、8/8は午前中設営につきPM1:00より、
8/14は撤収によりPM4:00まで
◆入場料:無料
革命の侍―チェ・ゲバラの下で戦った日系二世フレディ前村の生涯
以前、『「前村」さん研究室』というページを作り、前村姓についていろいろ調べたのですが、その際、南米ボリビアでチェ・ゲバラと共に戦ったフレディ前村という日系二世がいたという情報を得ていました。
今日、ひょんなことから、フレディ前村の評伝が出版されていることを知りました。これは、読んでみなければなりません。書評によれば、フレディ前村の父親は鹿児島出身の前村純吉という人で、移民としてベルー経由でボリビアに渡り成功したようです。
全国の前村さん! 同姓の前村さんに、こういう人もいたのですよ。
小生の地元であります埼玉県上尾市で、「まちかどの近代建築写真展」の開催が決まりました。JR上尾駅から徒歩10分ほどの所です。
◆名称:「まちかどの近代建築写真展in上尾」
◆主催:まちかどの近代建築写真展実行委員会
◆協力:近代建築探訪メーリングリスト
◆会場:上尾市役所ギャラリー
埼玉県上尾市本町3-1-1(市役所東棟1階)
◆会期:2012年8月8日(水)~8月14日(火)
午前10:00~午後8:00
但し、8/8は午前中設営につきPM1:00より、
8/14は撤収によりPM4:00まで
◆入場料:無料
北海道家庭学校礼拝堂(大正8年築)。遠軽駅から約5キロほどのところにある、山麓の静寂な立地です。前回はタクシーで乗りつけましたが、今回は歩きました。
部屋の片付けをしていたら、高校3年のときの作文が出てきました。卒業間際のホームルームの時間に担任の教師が書かせたものでした。卒業後、10年くらい経って、クラス会の場で恩師から渡されたものです。
読み返してみて、「日航ジャンボ機墜落事故」の影響を受けてのものかと思いましたが、調べてみると事故よりも5年前に書かれたものでした。卒業後の生き方について、書いたものです。
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低空飛行の安全性について
ともかくも、現在の飛行機は恐しいほどの高さを飛ぶ。しかも、それはものすごいスピードだ。--それはすなわち何を意味するかと言えば、便利な分だけ危険である、ということではないか。
落ちても死なない方がよっぽど良い。私はそれに決め込んだ。低空飛行は、落ちてもけがをする位だ。乗客全員死亡などという悲惨なことはおこりえない。低く飛ぼう。要は、行き先が同じであることだ。
行き付かないかも知れない、ユックリズム。その間にジェット機は三十往復しているかも知れない。あるいはえらく怠惰で、目的達成後は遊んでいるかも知れない。あるいは、ものすごいせっかちで、次の目的、次の目的と、終わりなく忙しくしているかも知れない。けれども、ユックリズムはマイペース。遊んでいるのでもなければ、なまけているのでもない。しかも、自分を見つめながら行くのである。これこそ最高の旅ではあるまいか。
そんな飛行機会社は商売になる訳がない。--商売をするつもりがないのだ。けれども食いはぐれることもない。つつましやかにも食ってはいける。低空飛行の飛行機会社は、僕一代だけの自己満足である。不安ではあるけれど、つまりは決して自信ではないけれど、絶望もないのだ。小さな飛行場を小きざみに飛んで、しらみつぶしに飛行場を利用して行くのだ。
紐差教会堂。昭和4年(1929年)築。鉄川与助の設計・施工によるRC造の教会。思い返すと、30年ほど前、学生時代に平戸ユースホステルで勧められて訪れたことのある教会堂でした。
現在、大阪で「まちかどの近代建築写真展in大阪VI」(第21回)を開催中。今回は、まちでひっそり佇む「郵便局舎」の特集です。
会期:2011年3月5日(土)午後~4月9日(土)午前
会場:天満屋ビル2階「お茶と雑貨のハaハaハa」
大阪市港区海岸通1-5-28 西展示室
時間:7:30~18:00 土・祝は11:00~18:00(定休日:水曜、日曜)
主催:お茶と雑貨のハaハaハa
企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:近代建築探訪メーリングリスト
JR宮古駅(昭和9年築)。
この度の東北地方太平洋沖地震では、多くの尊い生命が失われました。謹んでご冥福をお祈りいたします。また、被災された皆様には、心よりお見舞申し上げます。
いずれ、研究者の方々が被災状況の調査に入ります。その際に少しでも役立てばと思い、震災前の町々の写真をUPしておきます。
宝珠山駅前で見かけた洋館。シンメトリーな外観、スパニッシュな色合いの瓦屋根、出窓、スクラッチタイルなど、気になる建物です。
小松橋(昭和14年築)。石材を寄せ集めたような親柱と、ちょっと凝った加工をした石造の欄干の橋です。
江本酒造。煉瓦の煙突が見えるのですが、周囲を巡ってみても建物に近付くことができませんでした。
美濃歯科医院(昭和5年頃築)。大通りから一本奥に入った旧道沿いに建つ、美しい現役の歯科医院です。
旧琴平参宮電鉄赤門前停車場待合所(大正12年築)。取って付けたような櫛形のペディメントが載っています。
温泉湯。善通寺の門前町にある銭湯で、庇を突き抜ける2本の棕櫚が気になります。ネオン管の「温泉湯」の文字が、いい感じです。
旧琴平参宮電鉄事務所。聞き取りによれば、別の場所にあった建物を善通寺門前に移築し、飲食店等に使用しているとのことでした。
安芸の野良時計(明治20年頃築)。安芸市街から1キロほどの土居地区にあります。以前は畠中の櫓時計と呼ばれていたようですが、1975年のNHK「ゆく年くる年」で野良時計と紹介され、その後野良時計の名が定着したとのことです。25年ぶりに訪ねましたが、道路が広く綺麗になり、周囲の様子も一変していました。当時は、知る人ぞ知るというようなところだったのですが……。野良時計の前の畑には、観光用でしょうか、菜の花が植えられていました。
先週の土曜日、大阪の「お茶と雑貨のハaハaハa」さんで「まちかどの近代建築写真展in大阪V」がスタートいたしました。
午前中に設営を完了する予定だったのですが、思いのほか準備に手間取り、午後3時近くまでかかってしまいました。設営に馳せ参じていただいた皆さま、ご苦労さまでした。
今回の展示は、全国の現存する医院建築の特集です。メンバーに募り集まった写真のうち、266点を会場の壁という壁に展示しました。まだ見たこともない建物がいくつもあり、次の旅への思いが膨らみます。実は、募集で集まった写真は400点ほど。展示しきれなかった写真は、泣く泣く持ち帰ってきたのでした。
個人医院と言えば、白衣を着たおじいさん先生が看護婦さんと2人だけでやっているような、子どもの頃にお世話になったことのあるような、そんな懐かしさや消毒液の匂いの感じられる建物の印象があるのですが、皆さまはいかがでしょうか? 映画のロケなどにも登場しそうですネ。
「まちかどの近代建築写真展in大阪V」(第16回)
●今回のテーマはこじんまりと趣のある「個人病院」
・会期:2010年3月13日(土)午後~4月10日(土)午前
・会場:天満屋ビル2階「お茶と雑貨のハaハaハa」
大阪市港区海岸通1-5-28 東展示室
・時間:7:30~18:00 土・祝は11:00~18:00(定休日:水曜、日曜)
・主催:お茶と雑貨のハaハaハa
・企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
・協力:近代建築探訪メーリングリスト
今年も、大阪の「お茶と雑貨のハaハaハa」さんで、まちかどの近代建築写真展を開催することとなりました。
今回のテーマは「個人病院」。全国各地には、かわいらしい個人医院が数多く残っています。地方都市で洋館といえば、まずは個人医院ですから。
昨年秋に川越で開催した展示を、さらにパワーアップしてご覧いただきます。
ぜひ、お越しくださいますようご案内申し上げます。
「まちかどの近代建築写真展in大阪V」(第16回)
●今回のテーマはこじんまりと趣のある「個人病院」
・会期:2010年3月13日(土)午後~4月10日(土)午前
・会場:天満屋ビル2階「お茶と雑貨のハaハaハa」
大阪市港区海岸通1-5-28 東展示室
・時間:7:30~18:00 土・祝は11:00~18:00(定休日:水曜、日曜)
・主催:お茶と雑貨のハaハaハa
・企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
・協力:近代建築探訪メーリングリスト
旧三菱金属鉱業中央研究所(昭和13年築)。以前は、塔屋に赤いスリーダイヤモンドのマークが付いていたのですが、いつの間に無くなってしまいました。
旧制城東中学校(昭和6年築)。高知城のすぐ下にある建物で、追手前高等学校本館として現役です。
旧住田医院か? 以前、ここを通りかかったときに、この古そうな洋館を見つけていたのですが、今回、webを検索してみると、どうも旧住田医院のようでした。
近代建築を訪ねて温故知新
http://agen.at.webry.info/200803/article_16.html
高橋商店。JR伊勢崎駅前は、現在、区画整理で更地が広がっていますが、その先の一角に建つ看板建築です。
旧外人宣教師館(明治30年頃築)。駐車場の奥に、四角い下見板張りの洋館が見えました。かつては、駐車場は前庭だったようです。
柴田女子高等学校の円形校舎。駐車場に面して美しい全貌が望める、現役の校舎です。
つるや金物店。富良野駅前付近は道路の拡幅工事の影響か、真新しい店舗が多いのですが、そんな中でがんばっている建物です。正面の看板の下には、どんな窓が隠れているのでしょう。
伊予駅前の通りにある銭湯。シンメトリーで屋根のバランスも良い、ちょっとお気に入りの建物です。
公民館。丁字路の突き当たりに建つ建物です。近所での聞き取りで青年団の建物だったとのことでしたが、立地といい、それ以前の用途があったと思えてなりません。
岩崎邸(大正期築)。かわいいピンク色のハーフティンバーの洋館です。以前は通りからも建物を見ることができたのですが、敷地を切り売りしたのか、敷地角に新しいマンションが建っていました。
肥前浜駅(昭和5年築)。長崎との県境に位置する長崎街道の宿場町で、伝建地区にも指定されている肥前浜町の最寄り駅です。特急は止まりません。カクカクとした車寄せが印象的です。
旧玖珠税務署(昭和9年築)。県立玖珠農業高校の旧正門前にあり、現在、玖珠郡教育会館として使われています。
旧豊後森機関庫(昭和9年築)。大分方面から日田へ向かう列車が豊後森駅へ着く直前、左手に見える往時の扇形機関庫です。小生にとっては、在りし日の旧小樽築港機関庫にもぐり込んでSLを撮影した思い出があり、とても懐かしい光景です。RCの縦柱は、ただの円柱ではなく、上部が漏斗型に広がっています。この手の扇形機関庫では、京都の梅小路機関庫が現役です。
旧日野医院(明治27年築)。温泉地で有名な湯布院の隣町にある、近年まで現役だった擬洋風の医院建築です。以前から、ぜひ見に行きたいと思っていた物件でした。知りませんでしたが、平成11年に国の重要文化財に指定されています。この本館の他、隣接の大きな病棟、離れも重文です。
八角形の塔屋の付いた下見板張の洋館。駅前の再開発で、五所川原には近代建築が残っていないのではないかと心配していましたが、国道沿の駅から少し離れた地点でこの洋館を見つけました。真四角な2階建ての建物の上に、特徴的な塔屋が付いています。元々の用途は不明です。
青森銀行五所川原支店。五所川原駅前は再開発計画が進行中で、広い範囲で古い建物が一掃されつつあります。駅から数百メートルほど離れた国道沿に建つ、どっしりとした銀行建築です。
旧高橋接骨院。五所川原駅前にそびえる3階建ての建物で、近くに新しい建物で開業しています。
泉町にある、万町交番前交差点そばの3棟続く下見板張りの洋館。旧医院ではないかと思うのですが、聞き取りできませんでした。
栃木市消防団第七分団ポンプ小屋。旧栃木町役場の手前、栃木市立栃木第二小学校の角にあります。
東京中央郵便局・大阪中央郵便局の保存問題について、緊急シンポジウムのお知らせが届きました。転載自由ですので、ぜひ、多くの皆さんに告知をお願いいたします。
【緊急シンポジウム「東京・大阪中央郵便局の文化財的価値」開催のお知らせ】
日時:2009年3月22日(日)13:00~18:00
会場:建築会館ホール(東京都港区芝5-26-20)
http://www.aij.or.jp/jpn/symposium/2009/20090311.pdf
【日本建築学会の東京中央郵便局庁舎、大阪中央郵便局庁舎に対する歴史的価値に関する見解 2009年3月11日】
http://www.aij.or.jp/jpn/databox/2009/20090227.htm
【緊急シンポジウム 近代建築を考える・駅前シンポジウム 大阪中央郵便局舎をもっと良く知ろう!】
日時:2009年3月26日(木) 18:00~20:00(17:30受付開始)
会場:大阪市立大学文化交流センター大阪駅前第2ビル6階(06-6344-5425)
参加方法:当日自由参加
http://www.aij.or.jp/jpn/databox/tadantai/20090313.pdf
旧足利銀行栃木支店(昭和9年築)。以前見た時とすっかり印象が変わってしまいましたが、現在、飲食店として活用されています。
今年も「まちかどの近代建築写真展」を、大阪・天保山の「ハaハaハa」さんで開催いたします。
「まちかどの近代建築写真展 IN 大阪IV」(第14回)
―今回はアンコール!さらに新たなレンガ造りの建物を中心に
(「海岸通建物物語4」関連企画)
会期:2009年3月9日(月)~4月17日(金)
会場:お茶と雑貨のハaハaハa
大阪市港区海岸通1-5-28 天満屋ビル2階 東展示室
時間:7:30~18:00、土・祝は11:00~18:00(定休日:水・日)
主催:お茶と雑貨のハaハaハa
企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:近代建築探訪メーリングリスト
なお、3月7日(土)午前に会場設営を、また4月18日(土)午後に会場撤収を行ないますので、バタバタした状況ではありますが一部をご覧いただくことも可能かと思います。お時間が許せば、ぜひお越しいただければ幸いです。
お隣の商船三井築港ビル「ステムギャラリー」さんでも、レンガの企画があります。こちらも、併せてご覧ください。
「海岸通建物物語4―赤レンガに会いに行こう!―」
会期:2009年4月1日(水)~4月18日(土)5月15日(金)
会場:ステムギャラリー
大阪市港区海岸通1-5-25 商船三井築港ビル1階
時間:11:00~19:00(日曜休廊)
金谷レース工業事務所(昭和初期築)。スクラッチタイル貼り、円窓付きの登録文化財です。建物の前の棕櫚も、近代建築とセットの風景です。
今日の読売新聞埼玉版に、深谷の旧日本煉瓦製造の一般公開のお知らせが出ておりました。1月24日(土)、25日(日)の2日間、午前10時~午後3時、申込み不要で直接現地へとのことです。問い合わせ先は、深谷市教育委員会生涯学習課(048-572-9581)まで。
「国重文の煉瓦工場公開 深谷」(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news/20090119-OYT8T01083.htm
この工場は、東京駅の煉瓦を焼いたことで有名で、国内に現存する数少ない「ホフマン窯」も見学できます。
天気がよければ、小生も見に行こうかと思っています。
【追記】
1月25日、終了間際に駆けつけて見学してきました。
ホフマン窯のイメージとして、シモレンの円形のものを思い浮かべてしまいますが、この旧日本煉瓦製造のものは楕円形でした。しかも、トタンの覆い屋で覆われており、ちょっと残念でした。
24日に約1,500人、25日に約2,000人が見学に訪れたとのことです。教育委員会の方の説明では、今後も公開の機会をつくりたいとのことでした。
「東京駅や日本銀行もここから 窯など一般公開」(朝日新聞)
http://www.asahi.com/national/update/0124/TKY200901240065.html
「旧れんが工場 24日から公開 深谷」(埼玉新聞)
http://www.saitama-np.co.jp/news01/23/01.html
以前にも書きましたが、細々と「ロータリー交差点」の情報収集を行なっております。
>国土交通省のHPによれば、日本では「1934年に日本で初めて東京都の和田倉門交差点に設置されて以来、1941年までに43交差点が整備されました」とあります。
>http://www.mlit.go.jp/road/soudan/soudan_06_07.html
この戦前の43交差点がどこかが、興味の中心です。おそらく、このロータリーは国道に設置されたものと思われます。
最近、2カ所ほど、戦前の旧ロータリーであろうと思われる交差点に出会いました。
・桐生市「錦町ロータリー」
検索してみると、このロータリーには、かつて中央に噴水があったとか。
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・岡山市「柳川ロータリー」
ロータリーではなかったという記載もありますが、周囲の建物はどうも戦前ではないかと思われます。
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この他、岡山市内には次のような旧ロータリーかと思われる怪しい交差点があります。ただ、戦後に整備したような気配もあって、確信は持てません。
「大雲寺交差点」
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「清輝橋交差点」
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「十日市交差点」
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「大供交差点」
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「水道局前交差点」
大きな地図で見る
信号機のない、ロータリー交差点が現役だった頃の写真や地図などの情報をお持ちの方、ぜひお知らせください。交差点の中央部に花壇や噴水があったとか、塔が建っていたなど。よろしくお願いいたします。
昨年末、愛媛県の八幡浜市保内の町を歩いた折、竹筋コンクリートの情報を得ました。昭和16年架橋の「旧和田橋」が、竹筋コンクリート造だったとのこと。残念ながらこの「旧和田橋」は、平成11年の台風で倒壊してしまい、現在は親柱と花崗岩の部材とでモニュメントとして展示保存されています。
竹筋コンクリート造の「旧和田橋」はどんな姿だったのか、竹筋コンクリートが使われていたのはどの部分だったのか、そして、倒壊する前から竹筋コンクリート造ということが知られていたのか等々、知りたいことばかりです。
ネットで検索してみると、岡崎直司さんのブログのコメントに、ちょっと出てくる程度です。「旧和田橋」について、もっと詳しい情報をお持ちの方、ぜひお知らせください。
どうも、現存の竹筋コンクリート造には、なかなか簡単には出会えないようです。
現在の和田橋
日本通運尾鷲支店。尾鷲駅前にある「日通物件」ですが、2階両端のアーチ窓がこの建物の魅力です。
瑞泉寺の門前町の看板建築。1階は改築されていますが、2階の窓を見ると、かつてどんな建物だったのかを想像してしまいます。
石倉。黒磯駅前周辺を歩くと大谷石の石倉を多く目にしますが、この石倉には唯一、側面に装飾がありました。
仁愛会サロン。駅前通りが国道に突き当たる丁字路にある大谷石の平屋建て。入口のアーチや縦長の窓などが特徴的です。旧郵便局か、金融機関ではないかと思われます。
福島駅前の共同住宅。1階に店舗の入った建物で、大火や震災、戦災の復興や再開発に伴う物件かと思われます。
前郷のお屋敷町で、少々変わった塀を見つけました。のぞいてみると、派手な飾りの付いたポーチのある建物でした。主屋と別棟の構成は佐々木歯科医院と同じで、別棟は堂々とした洋館です。元々は、やはり旧医院だったのではないかと思われます。
佐々木歯科医院(大正10年築)。旧由利町(現由利本荘市)の城下町、前郷にある城郭のような医院です。正面の主屋、左側の木造3階建の養老閣、裏の文庫蔵、そして庭の小便所が、国の登録文化財に登録されています。
小嶋商店。木造下見板張の酒屋さんです。以前、恐山へ行くときに立ち寄った田名部の記憶とは、ずいぶん変わっていました。
奈良組事務所。木造駅前通りに建ち、多分に旧高谷銀行本店と桜庭歯科の影響下にあると思われます。奈良組は、地元の建築会社です。
近代建築ではありませんが、青森県の旧木造町(現つがる市)といえば、この木造駅舎(平成4年築)を採り上げなければなりません。京都工芸繊維大学の中川理先生の著書『偽装するニッポン』で見たのか、都築響一著『ROADSIDE JAPAN―珍日本紀行』か、五十嵐麻理著『日本珍スポット100景』だったか、とにかく良くも悪くも、インパクトのある建物です。
地元の亀ヶ岡遺跡から発掘された国の重文の遮光器土偶(愛称「しゃこちゃん」)を、巨大化して取り付けています。叩いてみるとコンクリート製で、中は空洞ではなく充填されていました(足の部分以外は、あるいはハリボテかも知れません)。ウィキペディアによれば「以前は列車の発着に合わせて土偶の目を点滅させていた(「いらっしゃいビーム」)が、子供が怖がるため最近は自粛している。リクエストがあれば点滅可能らしい。」とのこと。
※なお、この「しゃこちゃん」は高さ17.3mとの記載もありますが、どう考えてもそれほど巨大ではないです。17.3mというと、6~7階建てのビルに相当しますから。2階建ての駅舎に付いているのですから、せいぜい7~9mくらいでしょう。
で、この「しゃこちゃん」ですが、五能線の列車の乗客からは全く見えないというのも、困ったものです。どうやら、町民向けに立っているようです。
それにしても、木造(きづくり)という地名は、検索には困ったワードです。木造駅舎は、各地の「もくぞう」の「えきしゃ」がヒットしてしまいます(笑)。
旧高谷銀行本店(大正初期築)。旧木造町(現つがる市)の商店街の中ほどに建つ登録文化財で、現在盛農薬商会倉庫となってます。弘前を中心に多くの近代建築を手がけた堀江組の施工で、名棟梁堀江佐吉の弟、堀江豊吉と三男、堀江竹次郎による建物です。
五能線の木造駅前に建つ桜庭歯科医院。現在は、やっていない様子でした。今年の7月、五能線に乗ったときにチラリとこの洋館が見え、今回木造の町を歩くことにしたのでした。
旧広島文理科大学(昭和6年築)。爆心地より1.4kmの地点。現在、敷地は公園となっていますが、建物の今後は未定とのこと。何とか有効に利用して欲しいものです。
たまたま数日前に知ったのですが、今月、民事再生法の申請をした株式会社アーバンコーポレーションが、この広島大学本部跡地の再開発事業を受注しており、再開発計画は白紙に戻るともいわれています。
広島大学本部跡地の再開発計画
http://www.urban.co.jp/news_contents.html?id=725
昨日、渋谷で木造2階建の民家が倒壊したというニュースがありました。築80年ほどの建物ですが「老朽化で自然倒壊したものと見られている」という報道でした。
さて、今年の5月、中国の四川省で大地震があり、その直後に書き始めた、書きかけの文章があります。なかなか結論が出せずに、ずっと書きかけのままとなっていたのですが、昨日の民家倒壊のニュースを受けて、これは発表しておかなければならないと思い、少し手直しをしてUPすることにしました。
中国・四川省大地震では数多くの校舎が倒壊し、生徒・学生たちの痛ましい状況が報道されました。
この報道を受け、「日本の学校は大丈夫なのか?」という声も多く聞かれました。朝日新聞の記事によれば、1981年以前に建設された、古い耐震基準が適用された公立小中学校の校舎が、全国で約8万棟。そのうち、改修済みが約2万7千棟で、残りは、耐震診断で危険と判定されたか、耐震診断自体を受けていない校舎なのだとか。
さて、ここでかねてよりの疑問なのですが、古い建物は即、危険な建物なのでしょうか? 時間を経過した建物は、当然、老朽化します。しかし、老朽化とは、配管や塗装などの設備面の劣化が中心ではないかと思うのです。もし、構造自体も老朽化するのだとすれば、町の建物は一定の経年ごとに建替えられなければならないことになります。つまり、古い建物は全て一掃し、常に新しい建物に建替え続けなければならないことになります。しかし、何か変ではないでしょうか。だって、古い建物の街並みは、確かに存在するのですから。
木造は別として、鉄筋コンクリート(RC)造の建物について考えてみたいと思います。小生が子供の頃(40年くらい前)、RC造の建物は、「永久建築」とか「100年持つ」と聞かされていました。その後、大人になってから、RC造の建物の寿命は50年とか、40年とか聞くようになり、「アレ?」と思っておりました。
設備面での劣化に対しては、適切な保守を行なうのは当然です。これは、何もRC造の建物に限ったことではありません。しかし、もし仮に、RC造の建物の構造に対して、経年係数のようなものがあるのだとすれば、これまでの考え方を根本的に考え直さなければならないことになります。建築の専門家の方にぜひお聞きしたいのですが、老朽化=危険という図式は本当に正しいのでしょうか。
適切にメンテナンスを続けていけば、建物は半永久に保つことができるのではないでしょうか。「老朽化」が危険なのではなく、「必要なメンテナンスを怠ること」が危険なのではないでしょうか。
もちろん、手抜き工事や、偽装設計などは、当然ながら論外なことです。そういったことを除外したうえで、真っ当に建てられた建物についても、「老朽化」即「危険」と報道され、それが世間で正しいことと認知されていることに、どうしても納得がいきません。古い建物が危険なのではなく、必要な手入れを怠った建物が危険なのです。
建築家の方々、建設会社や工務店など建築を職業とするプロの方々、どうぞ、この当たり前のことを公言してください。世の流れは、誤った認識によって誤った方向に向かいつつあるように思われてなりません。
広島電鉄中央変電所。相生橋の手前で、寺院の奥に見かけました。被爆建物リストには載っていないので戦後の建物のようですが、どうも怪しい物件です。
昨日、田町の建築会館ホールで「日本における近代建築の原点~吉田鉄郎の作品を通して~」というシンポジウムがあり、会社帰りに寄ってきました。
http://news-sv.aij.or.jp/jnetwork/scripts/view30.asp?sc_id=2007
現在、東京中央郵便局(昭和6年築)と大阪中央郵便局(昭和14年築)の両局が、建て替え・解体の危機にあります。この両局を設計したのが、逓信省営繕課の吉田鉄郎でした。
昨日のシンポジウムでは、まず第一部として、富山テレビが制作したドキュメンタリー「平凡なるもの~建築家 吉田鉄郎物語~」が上映されました。
http://www.bbt.co.jp/bspe/index336.html
この作品は、東京中央郵便局、大阪中央郵便局の建て替えの情報を契機に、吉田鉄郎の出身地である富山のローカル局のディレクター東亜希子氏が、吉田鉄郎の生い立ちと作品に込めた思いを、冷静に丁寧にまとめたものでした。ナレーションは女優の中島朋子、ドイツやスウェーデンのロケまであり、地方局がよくここまで取材できたものだと思います。本気度が違います。
この作品は、今年の5月19日に地元の富山だけで放送されたとのことでしたが、それだけでは惜しい、上質な作品でした。今回の上映会などのように各地で上映の機会を持つべきだし、おそらく、いずれ全国ネットで放送される作品だろうと小生は期待しています。富山テレビのネット局であるフジテレビに放映を要望すれば、全国放送への一助になるかも知れません。
休憩をはさんで第二部では、時間が押してしまってほんの短い時間でしたが、東大の鈴木博之先生、日大の田所辰之助先生、建築家の兼松紘一郎氏、「東京中央郵便局を重要文化財にする会」の多児貞子氏、そして富山テレビディレクターの東亜希子氏のお話を聞くことができました。
今、東京駅前に立つと、まるで四角いケーキに羊羹を突き立てたような、あるいは地面に置いたナットに頭の付いていない太いボルトを挿したような、そんなバランスの悪いビルがあちこちに建つ「異様」で「奇妙」な光景が広がります。東京中央郵便局も、同じような形で建て替えるという計画が発表されました。これ以上、こんな形での建て替え物件を増やしてはいけないと思います。できれば、今のままの形での保存が良いのですが……。ちなみに、東京駅は、昔の姿に復元工事が始まったところです。
吉田鉄郎が設計した、現存するおもな物件は下記の通り(ウィキペディアより)。いずれも、地域の人々に愛され、多くは文化財として大切に保存されています。
・京都中央電話局上京分局(現・カーニバルタイムズ) (大正13年築) 京都市登録有形文化財
・京都中央電話局(現・新風館) (大正15年築) 京都市登録有形文化財
・検見川無線送信所 (大正15年築)
・別府市公会堂(現・別府市中央公民館) (昭和3年築)
・別府郵便局電話事務室(現・別府市児童館) (昭和3年築) 国登録有形文化財
・馬場邸(現・最高裁判所長官公邸) (昭和3年築)
・東京中央郵便局 (昭和6年築)
・馬場烏山別邸(現・第一生命グラウンド光風亭) (昭和12年築)
・大阪中央郵便局 (昭和14年築)
・馬場熱海別邸 (昭和15年築)
一昨日、上野の藝大美術館で開催中の「バウハウス・デッサウ展」へ行ってきました。ブロガー特別鑑賞会という、閉館後(17時10分~19時)、定員20名だけ、写真撮影可(条件付)という、何とも素晴らしい状況下での鑑賞でした(応募多数で、定員枠を50名まで広げたと後に知りました)。
まず、今回の展示で、これまで小生が勝手に思いこんでいたことが誤りであることに気付きました。時代順に「アール・ヌーボー」-「アール・デコ」-「バウハウス」だと思いこんでいたのですが、展示されていた年表で見ると「アール・ヌーボー」-「バウハウス」-「アール・デコ」の順だったのですね。とすると、バウハウスが突き抜けて、現代につながる画期的なものだったということです。装飾性を排した、無機質で機能的なデザイン。あるいは、装飾、その反動で非装飾、再び装飾という、揺り戻しだったのか。
バウハウスは、1919年から1933年までというほんの短い間に、ドイツで展開した教育機関の実践活動でしたが、そのインパクトは衝撃的であり、その後の世界への影響力は今もなお続いています。今回の展示もそうですが、バウハウスの活動は多方面にわたっています。多様な才能を持った教育者が集まり、デザイン、絵画、写真、工芸、染色、舞踏、演劇、そして建築など、さまざまなジャンルでの実験的な活動をくりひろげました。
過去、セゾン美術館や宇都宮美術館でのバウハウス展での展示でもそうでしたが、小生の興味は、家具、ポスター、建築といった分野にのみ惹きつけられてしまいます。絵画や舞台芸術などは、どうも前衛すぎて面白くないというか、わからないというのが実情です。
今回の「バウハウス・デッサウ展」は、ハウハウス中期から後期にかけての、現在も残るデッサウのバウハウス校舎での活動を中心に展示しています。
第一部は「バウハウスとその時代」で、バウハウスに到る様々な運動や活動、そしてヴァイマールでの初期バウハウスの活動を、地下1階の展示室を使ってざっと紹介しています。まあ、言われてみればそうなのですが、ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスから説きおこすかと思いました。創設期のバウハウスの工芸品の数々のいとおしさ。機械化、量産化を目指しながらも、多分に手工芸的なところを残した陶磁器やテーブルランプなどが、印象に残っています。
第二部は「デッサウのバウハウス」。3階の広い展示室を使った、今回のバウハウス展の中心展示です。まず、各教授たちの基礎教育の授業内容の紹介。そして、工房の紹介として、金属、家具、織物、壁画、印刷・広告の5工房に絞っての作品の紹介。さらに、実験的な写真芸術、舞台工房の映像や舞台装置の図案など。小生の興味は、やはり家具や金属に向かいます。
工房での試作と外部での量産という「バウハウススタイル」、多様なユニット化の試みなど、バウハウスの活動は、その後の機械化・工業化の生産につながる先駆けであったことがわかります。ただし、決して意図したものではないのでしょうが、バウハウスの時代にはまだ手造りの親しさ・温かさが残っており、その後の時代の工業製品の疎外感・冷たさはありません。
印刷・広告では、肉太の黒々としたレタリング、様々な級数で構成するタイポグラフィなど、派手さはないものの、訴える力のあるデザインが印象的でした。そして、効果的に使われる朱赤。それはちょうど、日本の書道や日本画などの落款印のような効果があります。まるで日の丸の旗のようなデザインの展示もありました。
第三部は「バウハウスの建築」。世界遺産となった「バウハウス校舎」などの模型と写真、図面の展示、そして校長室が原寸大で再現され、その室内へ立ち入ることも許されています。恥ずかしながら、バウハウスの「バウ」とは「建築」のことだったと、今回初めて知りました。バウハウスの最終目標は建築であるとする「バウハウス宣言」は、建築に興味を持つ者にとって、どれだけ力強い支えとなっていることでしょう。諸学の中心が哲学であるように、諸芸術の中心が建築であると。
バウハウスの建築の特徴は、鉄とガラスとコンクリートであり、現代に続くモダニズム建築の先駆けでもあります。しかし、工芸でもそうだったように、バウハウスの建築も親しさ・温かさを感じるのは、彼らには不本意だったかも知れませんが手作業の残る仕上がりゆえだと思われます。技術的にも未熟であり、実験的な試行錯誤による建築現場での作業により、それまでにない新しい建物を実現させました。バウハウスの建物を象徴するものは、建物から飛び出した、飛び込み台のような支えのないテラス(ベランダ)ではないかと思いました。鉄パイプの手すりとともに。
今回、ブロガー特別鑑賞会という、願ってもない機会を与えてくださった主催者の方々に、厚く御礼を申し上げます。お土産にいただいた図録の、なんと厚いことか。746頁もあります。最近の図録は、厚さを争っているのでしょうか(笑)。
最後に、以前は週末の夜間開館を実施している美術館や博物館が結構ありました。わざわざ美術展のために都心まで出てくるのではなく、仕事帰りにフラリと気軽に鑑賞できるということは、どんなに素晴らしいことでしょう。スタッフの方々のご負担も大変かとは思いますが、週末の夜間開館の実施について、ぜひご検討いただきたいと思いました。
バウハウス・デッサウ展 BAUHAUS experience, dessau
http://www.bauhaus-dessau.jp/
【会期】2008年4月26日(土)~7月21日(祝・月) 月曜休館
【開館時間】午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
【会場】東京藝術大学大学美術館[東京・上野公園]
(〒110-8714 東京都台東区上野公園12-8)
【主催】東京藝術大学、産経新聞社
【共催】バウハウス・デッサウ財団
【巡回先】2008年7月29日(火)~9月7日(日) 浜松市美術館
2008年9月13日(土)~10月19日(日) 新潟市新津美術館
2009年1月25日(日)~3月29日(日) 宇都宮美術館
このところ小林多喜二の『蟹工船』が売れに売れ、新潮社では古い文庫本では異例の2万7000部の増刷をかけたということがニュースになっていました。
小林多喜二といえば、小樽生まれの小生にはなじみ深い作家です。小樽にゆかりのある作家といえば、石川啄木、伊藤整、そして小林多喜二と、だいたい相場が決まっていました。いずれも市内に文学碑があり、ガイドブックには必ず載っています。小林多喜二の文学碑は、小樽港を見下ろす旭展望台にあり、労働者の首の付いた煉瓦色の文学碑は、子ども心に怖かった思い出があります。
http://www.otarucci.jp/kankou/bunka/bungakuhi/bungaku002.html
旧北海道拓殖銀行小樽支店(大正12年築)
旧三菱銀行小樽支店(大正11年築)
旧第一銀行小樽支店(大正13年築)
旧三井銀行小樽支店(昭和2年築)
小林多喜二は、生まれは秋田県の下川沿村(現大館市)ですが、4歳のときに小樽に渡り、大正13年に小樽高等商業学校(現小樽商科大学)を卒業後、市内の北海道拓殖銀行小樽支店に勤務します。現在「ホテルヴィブラントオタル」となっている旧北海道拓殖銀行小樽支店の建物は大正12年に建てられましたので、新築翌年の銀行の建物で勤務していたことになります。なお、この拓銀のある交差点には、大正11年築の旧三菱銀行小樽支店、大正13年築の旧第一銀行小樽支店が、また拓銀の並びには昭和2年築の旧三井銀行小樽支店の建物が現存しています。小林多喜二が勤務していた頃は、ちょうど小樽の銀行の新築ラッシュだったのです。
昭和4年に『蟹工船』が発表。同じ年に発表した『不在地主』が原因で拓銀を解雇され、翌年、小樽を離れ、東京に移り住みます。そして、昭和8年に特高に逮捕され、築地警察署内での拷問により獄死します。
今、大ヒットしている小林多喜二の『蟹工船』ですが、小生は今から30年くらい前、中学生のときに読みました。小生の感想としては、ちょっと読みにくい、粗削りな作品という印象があります。小林多喜二の『蟹工船』よりも、葉山嘉樹の『海に生くる人々』のほうが、読みやすく、小説としても完成していると思いました。ちなみに、小林多喜二は、葉山嘉樹の『海に生くる人々』を読んで『蟹工船』の執筆を決意したといいます。
小林多喜二の『蟹工船』を読んだ方は、ぜひ、葉山嘉樹の『海に生くる人々』や『セメント樽の中の手紙』、徳永直の『太陽のない街』なども読んでみてほしいと思います。
なお、少々時代が下りますが、小樽の映画館の数は、ピーク時には23館もありました(昭和30年~35年頃)。当時、小樽市の人口は約18~9万人だったので、「小樽は人口比で8000人に一館の映画館を持つ、北海道随一の映画館のまち」でした。大正末には、小樽には10を超す映画館があり、小林多喜二の日記には、小樽の映画館で見た映画の感想などが綴られているといいます。
また、小樽の銭湯の数も、ピーク時(昭和40年頃)には72軒もあったといいます。同じ町内に何軒も銭湯があるという状況でした。今では、銭湯の数は20軒ほどになっていますが、町の規模からすると、今でも小樽は銭湯の多い町です。
とうとう、デジタル一眼レフカメラを買ってしまいました。NikonのD60。今月初め、アマゾンで、レンズ付キットが5万円台になっていたもので、思わず買ってしまいました(今は1万円高くなっている!)。※6/20再び5万円台です。
思えば、小生が自分の一眼レフを手にしたのは、今から30年も前、高校に入学したときでした。CanonのAE-1です。入学祝いとして、親にねだって買ってもらった一眼レフでした。当時、予算は5万円までと提示され、ボディのみを購入しました。レンズは、親が持っていたCanonの標準レンズを借りて(勝手に!)、使っておりました。当時、小生の高校の写真部では、OLYMPUSのOM-1を持っている者ばかりでしたので、CanonのAE-1の評判は散々でした。
高校卒業時に、お年玉を貯めて標準ズームレンズを買いました。これも、5万円弱程度。ボディと同じくらいの値段のレンズを付けて、京都の下宿でのひとり住まいを始めました。
どこへ行くのでも、このAE-1を担いで歩きました。周遊券を使っての北海道や九州への2週間の長旅でも、持って歩きました。当然ながら、自分でパトローネに充填したモノクロフィルムを何本も持っての旅です。厳寒の根付半島のトドワラで、シャッターが下りなかったり、フィルムが切れてしまったりしたした経験もありました。
このAE-1の難点は、フィルムカメラでありながら、電池が切れると全く使えなくなってしまうことです。電池が切れても、シャッターくらい下りてくれても良さそうなものですが、一切使えなくなってしまうのです。しかも、AE-1で使っている電池は旅先ではなかなか売っていないような特殊なもので、しかも結構高かったのです。旅先で電池切れになり、持って行ったカメラがただのお荷物になってしまったという経験も、幾度となくしました。前日に交換した電池が、翌日には切れているという漏電の故障で、修理に出したこともありました。
大学を卒業後、仕事も忙しくなり、旅先へもコンパクトカメラを持って行くようになり、やがてはカメラ自体からも遠ざかっておりました。
CASIOのQV-10の登場でデジカメに飛びつき、その後、画素数が上がる度に何台買い換えたことか。そして今回、やっとデジタル一眼レフカメラデビューです。
数年前、デジタル一眼レフカメラが10万円を切ったときに、一度購入を検討したことがありました。しかし、バッテリーの持ちの問題で、断念していました。長旅には持って行けそうになかったからです。今回、ようやく購入を決めたのは、バッテリーの持ちが相当良くなったことと、5万円台になったことでした。NikonのD60は、重量も500gを切っており、日帰りや一泊旅行くらいには持って行こうかと思っています。
AE-1などのフィルム一眼レフカメラの時には、フィルム巻き上げレバーに親指をかけて構えていたものですが、デジタル一眼レフカメラには当然それが無く、親指の引っ掛かる部分が無いので片手持ちではちょっと心配です。カメラ前面のグリップに指をかけて持つのでしょうが、親指が遊んでしまって……。
当面は、デジタル一眼レフカメラと、デジタルコンパクトカメラとの両方を持ち歩くことになりそうです。
今回、NikonのD60とD40、CanonのEOS Kiss X2、そして新製品のEOS Kiss Fを購入対象として検討しました。まあ、最近はNikon系のデジタルコンパクトカメラを使っていたので、あまり深い考えもなく、NikonのD60になりました。はたして、夏の旅で使えるカメラかどうか。
西日本商事ビル。この建物も古いものか迷いましたが、船のイメージを持ち、水平を強調した横一列に並んだ窓などから、戦前の建物ではないかと思われます。
みずもと。詳細不明ですが、数年前のパンフレットには「飲食館みずもと」と記載されています。隣接する旧天聴酒造関係の建物ではないかと思われます。
熊本市役所古京町別館。以前から気になっていた建物で、旧軍の建物かと思っていました。戦後、家庭裁判所や博物館の分館としても使われていたようです。県や市、官庁の庁舎といった施設だったのではないかと想像しますが、詳細不明です。
越生織物会館(昭和5年築)。越生といえば「越生梅林」くらいしか知りませんでしたが、こんな立派な建物があったとは。老朽化により近く解体の予定です。解体を前に5月11日まで一般公開が行なわれ、小生も最終日に見学させてもらいました。2階は80畳敷の畳の大広間で、地域の公会堂的な使われ方をしていたそうです。老朽化とのことですが、確かに雨漏りがしてその影響でところどころ傷んではおりますが、まずは屋根さえ直せば後は少しずつ時間をかけてでも補修を続けていくことは可能だと思います。こうした建物の保存問題の際はいつもそうなのですが、修復には何千万円もかかるので保存を断念といった話になるのですが、建物を残すという意志さえあれば、少ない費用でも少しづつ直していけば良いのです。建物の価値が正当に評価されていないということなのでしょう。残念でなりません。
(9,954歩)
5月5日の子どもの日に「かしわ餅」を食べる習慣は、一体いつから始まったのでしょう。童謡「背くらべ」では「ちまき」を食べていますが、小生の家では、5月5日の「ちまき」というものを見たことも食べたこともありませんでした。大人になってから中華料理の「ちまき」を食べて、これが子どもの日の「ちまき」かと思ったくらいです。京都の祇園祭で、山鉾から投げる「ちまき」がそれかと思ったりもしましたが、これも違うとのこと。どうも関東圏では、「ちまき」ではなく「かしわ餅」を食べる習慣が一般的のようです。数年前、大阪の和菓子屋さんでたまたま「ちまき」を見つけ、ようやく「ちまき」の実態を知りました。餡も何も入っていない、新粉餅のような白いかたまりでした(笑)。
さて、「かしわ餅」ですが、小生の家の「かしわ餅」は、一般に見られるような餡の入った柏の葉にくるまれた餅ではありません。今は「べこ餅」と呼ばれるものを、「かしわ餅」と呼んでいました。ちょうど葉っぱの形で、箸で葉脈の型押しをして作るので、疑いもなく「かしわ餅」だと思っておりました。「べこ餅」という呼び方は、一般的な「かしわ餅」と区別する必要性から「べこ餅」と呼んだのではないかと思っていますが、同郷の道産子の方々、いかがでしょうか?
「べこ餅」は、北海道と東北地方の一部で食べられている、上新粉をこねて作る蒸し餅です。上記のように葉っぱの形に成型します。普通の砂糖を混ぜた白い部分と、黒砂糖を混ぜた黒い部分とを併せて、ちょうどホルスタインのような柄にします。子どもの頃、母親といっしょに「べこ餅」を作りましたが、粘土細工のようで楽しかったものです。経木、または笹の葉を四角く切り、その上に一つづつ載せ、蒸し器で蒸して出来上がり。出来立ても美味しいのですが、数日たって固くなった「べこ餅」を、餅網であぶったのもとても美味しいものです。
「べこ餅」については、下記のHPに詳しく載っています。デパートなどの北海道展で売れば良いのに。
北海道人「北のお菓子たち」
http://www.hokkaido-jin.jp/issue/sp/200405/special_01.html
東津山駅前通りが出雲街道と突き当たる丁字路にある事務所。よく見ると、入口部分にちょっとした細工があります。
(11,465歩)
旧団体事務所。路地を覗くと何となく気配を感じる建物が見えて、前まで進みました。土蔵風ながら両開きの窓が並んでいます。お住まいのご婦人にうかがうと、終戦後、表通りに建っていた旧団体事務所の建物を曳家して住宅にしたのだとか。
(10,627歩)
津山基督教図書館(大正15年築)。桜庭駒五郎の設計と聞いて、どこかで聞いた名だと思ったら、弘前で多くの建物を建てている棟梁でした。
(22,171歩)
4月8日より京都国立博物館で、特別展 没後120年記念「絵画の冒険者 暁斎 Kyosai-近代へ架ける橋」が始まりました。
暁斎とは河鍋暁斎のことで、幕末から明治にかけて活躍した日本画家です。河鍋暁斎と近代建築の関係で言えば、日本の近代建築の父であるコンドルが暁斎に弟子入りして日本画を学び「暁英」という画号を授かっており、暁斎の臨終も看取っています。さらに、当前村記念博物館としては、河鍋暁斎が江戸本郷の狩野派絵師前村洞和の弟子であったことも見逃せません。
これまで河鍋暁斎の大規模な展覧会は開催されておらず、今回の特別展では海外からの里帰り作品や未公開作品なども多く、他には巡回しないというのですので、これは見に行くしかありません。
来週の土曜日、4月19日に、大阪の天満屋ビル「ハaハaハa」さんで開催中の「まちかどの近代建築写真展」撤収の行きがけに、暁斎展を見てこようと思っています。夜行バスで行くことになりそうです。
京都国際マンガミュージアムでも、特別展「明治日本のギャグマスター 暁斎漫画展」をやっており、こちらも見なければ。両方を半日で見るのは無理そうですので、やはり泊まり掛けで行くしかないかナ。
暁斎は速筆・早描きで多作な人でしたので、各地で掛け軸や額を見ることがありますが、今回のような大きな会場で一堂に会して見ることのできるチャンスはなかなかありません。また、今回の特別展は、埼玉県蕨市にある「河鍋暁斎記念美術館」所蔵のものが大半なのですが、これまで直接見たことのないコンドル所蔵だった里帰り作品に大いに期待したいと思います。
特別展覧会 没後120年記念
絵画の冒険者 暁斎 Kyosai -近代へ架ける橋
・会期:2008年4月8日(火)~5月11日(日)
・休館日:月曜日(ただし5月5日は開館)
・開館時間:午前9時30分~午後6時 金曜日は午後8時まで
(入館は閉館の30分前まで)
・会場:京都国立博物館 (東山七条)
京都国際マンガミュージアム特別展
明治日本のギャグマスター 暁斎漫画展
・会期:2008年4月8日(火)~5月11日(日)
・休館日:水曜日(祝日の場合は翌日)
・開館時間:午前10時~午後8時
(入館は閉館の30分前まで)
・会場:京都国際マンガミュージアム2階 メインギャラリー
国立京都博物館
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html
京都マンガミュージアム
http://www.kyotomm.com/
河鍋暁斎記念美術館
http://www2.ocn.ne.jp/~kkkb/Kyousaij.html
※コンドルが書いた河鍋暁斎の伝記は必読です!(岩波文庫)
東京駅警備巡査派出所(大正3年築)。東京駅前から博物館明治村に移築された建物です。
(10,076歩)
神楽坂のアユミギャラリーの名物番頭さん(笑)だった渡邉義孝さんから、個展の案内をいただきました。独立され、風組・渡邉設計室を開設されており、また、近代建築探訪MLの仲間でもあります。
今回の個展は、世界遺産をめざす五島列島の教会群のスケッチで、昨年秋には長崎市内で開催され、今回は現地の新上五島町での開催です。五島列島か。行きたいナァ。20年くらい前に一度行ったきりです。いつか、五島列島の教会めぐりをしたいと思っています。
「長崎から世界へ 祈りの空間を描く-渡邉義孝水彩画展-」
会期:2008年4月12日(土)~19日(土)
開館:9:30~17:30(最終日14時まで)
会場:有川港多目的ターミナル鯨賓館ロビー
〒857-4211 長崎県南松浦郡新上五島町有川郷578-36
電話:0959-42-0180 入館無料・会期中無休
共催:鯨賓館・上五島歴史と文化の会・新上五島町世界遺産推進室
こちらは、昨年秋の長崎市内での個展の様子
http://homepage3.nifty.com/w_yoshi/ak/ngsk/exb.html
柘植駅旧ランプ小屋(明治23年築)。「日本赤煉瓦建築番付」の前頭として掲載されています。
(9,954歩)
旧岡部農業協同組合。「日本赤煉瓦建築番付」で前頭に掲載されている建物ですが、どう調べても情報が得られず、深谷市教育委員会(岡部町は深谷市と合併)に問い合わせ現存を確認、そして今回やっと訪ねることができました。窓が割れ、老朽化も著しい状況ですが、本格的な煉瓦建築であり、ぜひ保存・活用すべき物件です。
仲間うちでは「カッパの顔」だと評判だったのですが、いかがでしょうか(笑)。
追記
「日本近代建築総覧」によれば、この建物は、大正4年築の旧岡部村役場とのことです。
(8,788歩)
白鳥会館(明治22年築)。日本赤煉瓦建築番付に「小浜旧桑原薬種店」として前頭で掲載されている建物です。
旧大分銀行日田支店(大正5年築)。以前訪れたときには濱田耳鼻咽喉科医院でしたが、平成13年に「隈まちづくりセンター黎明館」となり活用・公開されています。
旧家辺時計店(明治23年築)。以前は京都象嵌という会社だったのですが、現在は京都ダマシンカンパニーという名になっています。
「まちかどの近代建築写真展IN大阪III」開催に向けて。第14弾は、北海道士別の煉瓦建築です。駅前に農業倉庫が並んでいます。
先月小樽へ行ったおり、小樽運河プラザに「小樽名建築番付」が展示されていました。昭和55年といえば、小樽運河保存運動のまっ最中です。
これは、小樽運河の保存運動をきっかけに、小樽の町を見直そうとした小樽の若者たちが考えて作ったツールでした。この番付は、後に「日本赤煉瓦建築番付」などの参考になったものです。思えば、小樽運河保存運動は、その後各地でのさまざまな保存運動で参考にされる、あらゆるアイデアが考え出され、実行されたのでした。
さて、この「小樽名建築番付」をテキストにしてみました。カッコ書きは、小生の書き添えです。驚くことに、この番付に載っている建物の大半が現存しているのです。これは、小樽運河保存運動の成果なのかも知れません。
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蒙御免 小樽名建築番付
行司 勧進元 夢街
東
横綱 小樽倉庫(現・小樽市総合博物館運河館)
横綱 日本銀行支店(現・日本銀行旧小樽支店金融資料館)
大関 中央バス本社(旧・北海道銀行本店)
大関 三井銀行(現・石屋製菓所有)
関脇 罐友会館(現・小樽グランドホテルクラシック)
関脇 銀鱗荘(旧・猪俣安之丞邸)
関脇 公会堂
小結 板谷邸
同 富岡カソリック
同 海陽亭(旧・魁陽亭)
同 商大方二〇番棟(?)
前頭 小樽市役所
二 旧拓殖銀行(現・ホテル1・2・3小樽)
三 旧百十三銀行(旧・千秋庵)
四 フジヤ家具
五 旧上勢商店(現・ホクリョウ)
六 林屋製茶(旧・第百十三国立銀行小樽支店)
七 北海道紙問屋(旧・第四十七銀行小樽支店)
八 小樽駅
九 旧山本邸(?)
十 旧坂牛邸
西
横綱 旧手宮機関庫(現・小樽市総合博物館内)
横綱 博物館(現・旧日本郵船小樽支店)
大関 川又商店(旧・早川支店)
大関 大家倉庫
関脇 名取商店
関脇 にしん御殿
関脇 青山邸
小結 名取邸
同 住ノ江カソリック(旧・佐々木邸)
同 和光荘(旧・野口邸)
同 川田商店
前頭 商工会議所
二 北海製罐
三 市立図書館(現存せず)
四 旧三菱銀行(現・北海道中央バス第2ビル)
五 清水鋼機(現存せず?)
六 石ヶ守商店(旧・久米商店)
七 旧富士銀行(現・花ごころ小樽店)
八 旧三井物産(現・松田ビル)
九 寿原邸
十 島田歯科(現存せず?)
昭和五十五年一月一日
※なお、検索していたら、この番付を作った人のブログを見つけました。小樽でお蕎麦屋さんをなさっているのですね。今も、小樽のまちおこしで頑張っておられるご様子。
「小樽・藪半・蕎麦屋親爺の独り言」
http://blog.livedoor.jp/sobaya_oyaji/archives/50346604.html
旧奈良刑務所(明治41年築)。司法省技官だった山下啓次郎設計による、明治五大監獄の一つです。現在、奈良少年刑務所として現役です。以前は門に守衛がいて、撮影しようとするとすぐに阻止されたのですが、何故か今回は誰もおらず、撮り放題でした。
旧共同野村銀行(昭和8年築)。結構手の込んだ銀行建築です。昭和のまちおこしで有名な豊後高田の商店街の中ほどに建っています。せっかくの建物なのですが、活用の方法がいま一つ。もっと積極的に、前面に出してアピールしても良いと思うのですが。
旧小池医院(昭和6年築)。以前から気になっている建物です。この建物の直前まで道路の拡幅工事が迫ったままでストップしています。ほんの少しだけ、歩道分が建物にひっかかっているだけなのです。何としても、残したい建物です。
しばらく沙汰止みとなっていた旧長崎刑務所の保存問題ですが、昨日の長崎新聞や今日の西日本新聞長崎版などに続報が出ていました。
旧長崎刑務所を一部保存へ 三角屋根の管理棟など
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20071119/02.shtml
旧長崎刑務所の所有会社 一部保存を検討 用途変更次第で再考も
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/20071120/20071120_002.shtml
旧長崎刑務所一部保存へ
http://cgi.ncctv.co.jp/news/index.php
旧長崎刑務所 一部保存へ検討
http://www.ktn.co.jp/news/d071119.html
これらの記事によれば、保存が検討されているのは、正門と正門から左右に広がる壁の一部(高さ約6.6メートル、幅約20メートル)、管理棟のエントランス部分(玄関と三角屋根の2階建ての部分、高さ約14メートル、幅約4.5メートル)。さらに、別の建物地下から見つかったアーチ形煉瓦造の基礎の一部も復元保存を検討とのこと。
全面保存を目指していた方々には大いに不満でしょうが、現実問題としてはこの保存内容で「御の字」ではないでしょうか。旧長崎刑務所が、全く何も残らず消し去られることに対して保存を訴えてきたのですから。
開発会社側は、「用途変更」で条件交渉に入っています。これは、小生が以前書いた通りです。諫早市側が持っている権限である「用途変更」と引換えに、旧長崎刑務所の一部保存、およびその土地と建物の市への寄付を検討しているのです。
諫早市側は、ぜひ、この交換に応じるべきだと小生は考えます。開発会社側にも、諫早市側にも、双方にとってメリットがあるからです。地域住民にとっても、近隣の商店主にとっても、跡地の大型商業施設進出は悪い話ではないと思います。
確かに、周辺の交通渋滞や、客の流れが変わってしまうことに対しての懸念はあります。それらの問題の解消のためには、旧長崎刑務所の跡地にできる駐車場をショッピングセンターのためだけのものとせず、周辺の商店街や観光スポットへ歩いて行くための基地として位置付け、徒歩で周遊する地域として周辺を整備するなど、新しい取り組みが必要です。
旧長崎刑務所の赤レンガを起点に、諫早公園の眼鏡橋(重文)や、昭和6年築の旧諫早銀行本店(十八銀行諫早支店)などをまわるためのガイドマップを用意し、途中のお店の紹介なども載せれば……、とアイデアがふくらみます。旧長崎刑務所のことについて学習できる常設展示も欲しいですね。
あまりお金をかけなくても、できることは沢山あります。今回の旧長崎刑務所の保存を契機として、諫早のまちの活性化のために、知恵を出し合って皆で話し合いましょう。
旧米沢織物組合本館(大正11年築)。登録有形文化財。現在、米沢織物歴史資料館として公開されています。上杉博物館で、新築当時の写真を見ましたが、現在とはずいぶん違っています。ただ、階段の踊り場のステンドグラスなどは、以前のままです。
昨日(11月6日)の日経新聞夕刊の文化欄に、工場や水門、ダムなどの写真集が売れているという記事が載っていました。記事の構成や発言者の見解には多少違和感もありますが、肯定的な記事でしたので、まずは良しとしましょう。
記事の文脈を追うと、これらの写真集の特徴は、プロの写真家ではなく、素人の撮った写真集であることが挙げられています。写真集『工場萌え』の編集担当である東京書籍の角田氏は、「写真がうまい人ならもっといる。でも愛はない。石井氏の写真からは工場が好きでたまらないという愛が伝わる。それが読者の共感を呼んだと思う」と発言しています。
まあ、「愛」と言ってしまえばそれまでなのですが、それがマニアの力(パワー)だと小生は考えます。時間であれ、お金であれ、プロとは違う形での強い力の注ぎ方をしており、そうした背景があっての「写真」なのです。
『工場萌え』の共著者である大山顕氏は「僕らが好きなのは写真じゃなくて被写体。そこが写真家の写真と違う」と発言しています。これは、小生がかねがね言っていることと同じで、大いに共感します。作品としての写真ではなく、写っている被写体自体が大切なのです。現物をコレクションすることができないゆえに、写真を撮っているのです。例えれば、昆虫マニアのコレクションである標本の代わりが、ある対象を撮った写真の数々なのです。
写真集『東京鉄塔』を出した自由国民社の竹内尚志編集部長は、「これまでの写真集は『いかに撮るか』というプロの目や腕を見せるもの。今、出ている本は『何を撮るか』に重点がある」「本格的な写真家から見れば邪道。けれど写真より、写っているものが大事という人は撮る側にも見る側にも増えている」と語っています。
これは、学生時代に写真部内で論争したことのあるテーマでした。要は、写真がごく一部の者だけのモノではなく、全ての人々のモノとなったということに尽きるのではないでしょうか。写真の敷居が低くなり、写真を撮るということが特別なことではなくなり、作品ではなくメモ代わりの記録として、手軽に写真を撮ることが普通の社会になったということでしょう。フィルムのコンパクトカメラが登場したときには、それは家族を撮る「スナップ写真」でした。それが今は、身の回りの静物を撮る写真となったのです。大山氏は「オルトスケープ」と呼ぶことを提唱していますが、小生は風景ではなく静物として、コレクションに加えるような意識で被写体を撮影しているのではないかと考えます。
「今までとは違う新しい感性が出てきた」という、写真評論家の飯沢耕太郎氏の発言には違和感を感じました。「工場や団地を見て育ち、アニメ『ガンダム』や大友克洋の漫画、映画『ブレードランナー』に登場する未来の都市イメージを現風景として共有する世代。公害などのマイナスイメージにも縛られず、純粋に産業構造物を美しいと見られるのだろう」とは、何とも表層的な想像です。どうして、すぐに「ガンダム」や「プレードランナー」が出てきてしまうのでしょう。
小生は、この産業構造物への傾斜は、昭和ブーム、レトロブームと同根であると考えています。円筒形の赤い郵便ポストが懐かしいように、工場やダムなどの巨大な産業構造物も、すでに人々の「懐かしい」範疇に入ったのです。飯沢氏はこの被写体について「未来の都市イメージを現風景」としますが、小生はその被写体自体がすでに過去のイメージなのだと考えています。人々が記録するということは、やがて失われゆくはかなさ、懐かしさなのだと。これは、根拠のあることではありませんが、そこにあるものは永遠ではないということがいつも意識されており、今を記録してコレクションしておきたいという欲求により、こうした写真が撮られているのだと実感しています。
そもそも、マニアの写真とは、そういうものです。「写真マニアの写真」なのではなく、「○○マニアの写真」なのです。駅のホームにいる鉄道マニアの写真を思い浮かべてみれば、わかりやすいでしょう。少し以前から鉄道写真というジャンルが確立しており、多くの写真集が発行されています。市場規模が大きくなり、需要が高まれば、そこに鉄道写真のプロが成立します。ただし注意しなければならないのは、この鉄道写真のプロは、写真家が鉄道写真を撮るのではなく、鉄道マニアがプロの写真家になっているという点です。産業構造物のブームが一過性のものではなければ、いずれはこのジャンルのプロの写真家が育つことでしょう。マニアではないプロの写真家が、このジャンルの写真を撮ったとしても、何か違う写真になってしまうものです。
「単なる『偏愛写真』と片づけられない広がりを見せそうだ。」とこの記事はまとめています。「偏愛写真」とはずいぶんな言いようですが、それぞれのマニアの力が、マニアではない一般の人々にも理解され、評価されるようになったということでしょう。誰もが均質な関心を持つ時代から、マニアックに狭く深くを求める時代へと、確実に進んでいるのです。
昭和10年代から20年にかけて、戦時下で金属不足のため、鉄筋コンクリートに代わる材料として竹筋コンクリートが研究され、実際に施工されたと言われています。
しかしながら、現在、どれが竹筋コンクリートによる物件であるかは文献では伝わっておらず、伝聞として伝わっているものばかりでした。
少々前になりますが、今年の7月、玉井孝幸先生のブログ「建築調査技術コンサルタンツ」に、決定的な情報が記載されていました。
http://brtc.at.webry.info/200707/article_5.html
昭和16年発行の古本『時局化における土木工事の施工法に関する講演会講演集』のなかに、「竹筋コンクリートの強度並びに調査」と題する発表があり、竹筋コンクリートで施工された建築物の例が載っているとのことです。
報告されている物件は、下記の4件。
農林省林業試験所の各試験地の建築物の一部
・白河(福島県)気象観測室および雨量計地下室
・鷹巣(秋田県)
・釜淵(山形県)
・十日市(新潟県)
現存しているかどうかはわかりませんが、少なくとも昭和16年までに、実際に竹筋コンクリートの建築物が建てられたことが明らかになりました。
それぞれの地元の方からの情報提供を、切望いたします。当時の建物は、現地に残っていますでしょうか。小生も、いずれ各地を訪ねてみたいと思います。
昭和16年以降にも、竹筋コンクリートの建築物は建てられたはずです。さらなる発見を期待したいものです。
旧新潟税関庁舎(明治2年築)。国指定重要文化財。以前は新潟市立博物館として活用されていましたが、現在はその敷地内にみなとぴあ新潟市歴史博物館が新築され、空家状態のなっています。
駅前通りと国道とが接する角地に建つ。下見板張の二階家。左隣の敷地は、道路拡幅工事で削られてしまったようでした。
2年前、2005年秋に公開された映画「ALWAYS 三丁目の夕日」は大ヒットとなり、昭和ブームが到来しましたが、来月いよいよその続編が公開となります。
ストーリーや小さな逸話などで、本当に泣かさる(北海道弁)映画なのですが、それとは別に、昭和30年代の風景を求めて各地でロケが行なわれており、そのロケに使われた建物などにも興味が向かいます。前作では、栃木県栃木市の「旧足利銀行栃木支店」や、岡山県岡山市西大寺の「五福通り商店街」、岡山県倉敷市玉島などでロケがおこなわれ、東京の昭和30年代の風景を再現していました。
今回の「ALWAYS 続・三丁目の夕日」では、次のようなロケ情報があります。
・東京都国分寺市東恋ケ窪の「孫の湯」
・東京都千代田区の「九段会館」
・兵庫県西宮市の武庫川学院「甲子園会館」
・群馬県館林市の神社
・静岡県島田市で「東京冬の街角」風景
・岡山県真庭市の「旧遷喬尋常小学校」
・福岡県北九州市八幡東区で「東京浅草の繁華街」風景
・山口県宇部市の「渡辺翁記念会館」
http://www.geocities.jp/always3chome/zoku-ashiato.html
こうしたロケ地の建物の他に、CGで再現された建物もこの映画の楽しみです。今回の続編の予告編を見ていたら、日本橋の橋詰に建つ旧帝国製麻ビルが、美しく映っているではありませんか!!
映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」公式ページ
http://www.always3.jp/
Yahoo!動画「『キネマ横丁』『ALWAYS 続・三丁目の夕日』特番」
http://streaming.yahoo.co.jp/p/t/00073/v02835/
旧帝国製麻ビルは、東京駅と同じ辰野金吾の設計で、赤レンガに白い石の帯をまわした、いわゆる「辰野式」の建物でした。調べてみると、昭和62年(1987年)に解体されています。気が付くと、いつの間にか解体されていたという印象です。
解体時には大栄不動産の所有となっており、金文字で大きく「大栄不動産」と書かれていましたが、調べてみると大栄不動産がこのビルを所有したのは昭和39年。「ALWAYS 続・三丁目の夕日」で、このビルに「大栄不動産」と書かれていれば誤りということになります。
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」は、11月3日より全国東宝系でロードショー公開です。
旧刈田病院(明治15年築)。物置状態で、建物の手前ギリギリまで別の建物が建っています。何とか、有効に活用したい物件です。
明日10月6日(土)より、東京都文京区根津にある日本基督教団根津教会(登録有形文化財)を会場に、「まちかどの近代建築写真展 IN 根津II」が開幕いたします。実は、昨晩はその準備で、明け方まで展示パネル作りをしておりました(笑)。
初日の明日は、夕刻より設営現場の公開となりますが、お時間のご都合がつけば、ぜひお運びください。
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2004年にJR札幌駅コンコースを会場にスタートした「まちかどの近代建築写真展」も、今回で第10回を数えることとなりました。これまで、山形県長井市に残る郡役所や大阪市港区の天満屋ビル、山梨県甲府市のカトリック教会などを会場に、回を重ねることができましたことを、会場を提供してくださった方々、また、来場頂いた皆様に感謝申し上げます。
「まちかどの近代建築写真展」は、近代建築探訪メーリングリスト有志の撮影による、全国各地の身近な近代建築の写真展です。どこの町にも、生活や歴史を秘めた素敵な近代建築がひっそりと建っているものです。この写真展は、こうした近代建築を通じて、それぞれの町を見直しきっかけとなればと思いスタートさせました。これからも私たちの写真展が、人々の思い出や町の歴史のために役立てればと願っています。
「まちかどの近代建築写真展IN根津II」(谷中芸工展参加)
会期:2007年10月6日(土)~10月14日(日)
時間:10:00~17:00(初日は16:00から。最終日は16:00まで)
会場:日本基督教団根津教会(東京都文京区根津1-19-6)
主催:日本基督教団根津教会
企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:近代建築探訪メーリングリスト
日本建築学会関東支部歴史意匠専門研究委員会
データベースワーキンググループ
建築から学ぶ会
*なお、この写真展は会場さえ用意いただければ、全国どこへでも出前(貸出)をいたします。空き店舗、地域スペース、学校など、町おこしなどのきっかけとしていただきたく存じます。(連絡先:gookomichi@mail.goo.ne.jp)
市内で見かけた謎の物件です。建物のシマシマは、モルタルでコーナーストーンを表したものかと思われます。弁護士などの事務所ではないかと思われます。
旧弘前偕行社の裏手に、趣のある住宅が2棟建っています。おそらく、官舎だったのではないでしょうか。
旧吉井酒造煉瓦倉庫(大正14年頃築)。弘前に行く都度、気になっていた大きな煉瓦倉庫です。近年、ギャラリーとして使用されたりしています。
旧弘前銘醸煉瓦倉庫。現在、弘前製氷となっています。
旧三原堂弘前支店(明治30年築)。現、一戸時計店。時計塔のかわいい、古くからの商店街に建つ弘前のランドマークです。
旧高谷英城別邸洋館(昭和10年築)。弘前にある本格的ライト建築で、現在、中華レストランとして活用されています。
旧青森尋常中学校(明治26年築)。現在、弘前高校構内で鏡ケ丘記念館として大切に保存されています。
旧弘前無尽(昭和2年築)。旧国立第五十九銀行や日本基督教団弘前教会会堂の道路の向かいに建っている商業ビルです。
旧角三呉服店(明治16年築)。市指定文化財。土蔵造の擬洋風建築です。大正6年に津軽銀行に譲渡され、平成10年まで長らく青森銀行津軽支店として使われていました。現在、弘前市立百石町展示館として公開されています。
先日、読売新聞に「ムンプス難聴」のことが載っていました。「ムンプス難聴」と言われても何の病気かわかりませんが、おたふく風邪の合併症で、おもに片耳が難聴になるとありました。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/medi/renai/20070912-OYT8T00075.htm
小生も、まさにこの難聴で、5歳の頃おたふく風邪で熱を出し、左耳の聴力を失ってしまいました。45歳になる今日まで、自分の病名を知りませんでしたが、「ムンプス難聴」という名の難聴だったのですね。5歳で入院もし、その後もずっと耳鼻咽喉科に通い続けました。治療法のない病気なので、聴こえるほうの耳の維持のためのメンテナンスでしたが。聴力検査用の防音室での検査など、小さな子どもだったのに、慣れたものでした。
記事によれば、これまで「ムンプス難聴」の発症はごくまれで、1万5千~2万人に一人の割合程度と言われていたが、最近の調査では、もっと高い頻度で発症しているらしいことが報告されているとのこと。
「ムンプス難聴」になってしまったお子さんを持つお母さん方が、ホームページやブログで、熱心に情報交換を行なっておられます。
ムンプス難聴のお部屋
http://www.geocities.jp/mumps_deafness/
お子さんの将来のことを、ずいぶんと心配されているようですが、小生自身の経験から言えば、多少の不便はありますが、まあ普通にやっていけると思います。40年間、この片耳生活を続けてきましたが、幸い、片耳が聴こえないからといじめられることもなく、学校時代を終えました。
進路指導や就職活動のときに、音楽関係や音響関係の仕事は止したほうがよいと、アドバイスされました。まあ、小生自身はそちらの方面に行こうとは思っていなかったので、何も悩みませんでしたが。
不便は、いろいろとあります。ステレオ効果を実感することができませんし、ステレオヘッドフォンは片側しか聴こえないので、モノラルにして聴いています。聴こえない側から話しをされても、聞きとれないことが大半です。聴こえない側の後方から来る、人や自動車などの気配も感じられません。街で誰かに呼びかけられたりしても、前後左右どの方向から呼ばれたのか判らず、キョロキョロしてしまいます。
一番ショックだった思い出は、中学生のとき、陸上部の市内大会で400m走に出場したのですが、スターターの「ヨーイ」の声が聴こえず、用意の姿勢をとれないままピストルが鳴ってしまったことでした。このときは、何ともやりきれない思いをしました。改善できることなのですから。
小生と同じように、おたふく風邪の影響で片耳しか聴こえない人が結構いるのだと知り、心強く思いました。さらに、おたふく風邪が原因なのですから、おたふく風邪の予防接種をすれば「ムンプス難聴」が防げるということも、発見でした。海外先進国では、予防接種が普及しているため、「ムンプス難聴」がほとんどないのだとか。防げるものなら、それに越したことは無いと思います。予防接種の副作用との兼ね合いですが、海外事例から考えれば、おたふく風邪の予防接種をしたほうが良いと、小生は思います。
「ムンプス難聴」の子どもたちに、声援を送りたいと思います。
旧第八師団長官舎(大正6年築)。登録文化財。市役所敷地に移築され、市長公舎として使われました。
旧弘前市立図書館(明治39年築)。青森県指定重要文化財。一時期、民間に払い下げられ、他の場所に移築してアパートとして使われていました。昭和62年に東奥義塾が移転して追手門広場となる際に、かつて建っていた場所の近くに再移築されました。
旧東奥義塾外人教師館(明治34年築)。青森県指定重要文化財。昭和62年に東奥義塾が別の場所に移転し、跡地が追手門広場として整備され、この外人教師館がそのまま旧敷地内に保存された形となりました。
旧国立第五十九銀行(明治37年築)。国指定重要文化財。現在、青森銀行記念館として公開されています。かつては、日本基督教団弘前教会会堂と同じ通り沿いに建っていましたが、昭和40年代に90度振って一区画奥に移築・保存されました。
日本基督教団弘前教会会堂(明治40年築)。弘前城を背にして幹線道路に面して建つ、弘前を代表する教会の建物です。現在のペイント色は、ちょっと浮いている感じがするのは小生だけでしょうか。
弘前カトリック教会(明治43年築)。この教会も、以前は住宅地の中に埋もれるようにひっそり建っていたのですが、現在は広々とした敷地に美しくそびえています。
弘前昇天教会聖堂(大正10年築)。弘前で計画道路や拡幅工事が活発化する以前、この教会は知る人ぞ知るといった隠れた存在でした。現在は、周囲の建物の立退きもあり、広い通りから駐車場越しに見渡せる、弘前を代表する教会の一つになりました。
旧偕行社(明治38年築)。戦後、保育園として使用されていましたが、現在は弘前女子厚生学院記念館として公開されています。
旧制官立弘前高等学校外人教師館(大正14年築)。旧偕行社のそばから、弘前大学構内に移築されました。きれいにペイントされた姿は、移築前の姿を思うとまるで別物のようです。
正進会館。現在、空手の道場となっています。窓の飾りなどを見ると、軍か学校の講堂だったのではないかと思われます。
弘前消防団西地区団第一分団屯所。前川國男の木村産業研究所を探していて、偶然見つけた屯所です。道がクランクになったところに建っています。
8月31日、諫早で開催された「旧長崎刑務所の保存と活用を考える市民フォーラム」ですが、当夜、出席された長崎総合科学大学の山田由香里さんからお電話をいただき、会議の様子などをうかがいました。また、「旧長崎刑務所の保存と活用を考える会」の栄田元信さんから、メールで状況のご報告をいただきました。長崎県建築士会長崎支部青年部のブログや、長崎新聞、西日本新聞などでも報道されております。
「市民フォーラム」((社)長崎県建築士会 長崎支部青年部のブログ、9月1日付)
http://blog.goo.ne.jp/nagasaki-seinenbu/e/1d23657a658badda0f9bbbfc5be4b48c
「高評価、一方で否定的声も 旧長崎刑務所でフォーラム」(長崎新聞、9月2日付)
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070902/04.shtml
「「署名行動で勢いを」「解体の現実を直視」 旧長崎刑務所の保存策探る 諫早でフォーラム」(西日本新聞、9月2日付)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/20070902/20070902_002.shtml
お話をうかがった内容や報道などを見ると、市民の間でかなり意見が割れてしまっているようです。これまでにも、近隣住民の意見は報道されていましたが、旧長崎刑務所を保存するということについての反発は報道以上のものがあるようです。近隣の地主など、直接、利害や利権の絡む問題ですので、これは止むを得ないことでしょう。
また、当ブログへのコメントとして、市民の方々からいくつか書き込みがありました。武田洋子さん、ムーミンさん、山口さん、コメントありがとうございます。それらの意見をまとめると、主張は次の3点になるかと思われます。
まず、財源の問題です。ここでも、保存するには10億円もかかるというステレオタイプの金額が提示されています。今のご時世、お金が無いのは当然ですので、お金が無いならば無いなりの保存の方法があります。また、その負担を市民に負わされるのではたまらないという意見はもっともなことで、旧長崎刑務所のような貴重な文化財級の物件の保存は、国民の財産として国全体で負担すべきでしょう。これは私見ですが、文化財の保存は、将来の子孫に残すということですから、未来への負債でも良いのではないかと考えています。後世、よくぞ残してくれたと喜ばれるか、なぜ解体してしまったと恨まれるか、ということです。
次に、なぜ今ごろ保存を言い出すのかという時期の問題です。これは、現在保存を主張している人々が、反省しなければなりません。小生も、なぜもっと早く保存を訴えなかったのかと思っています。小生の場合、2005年に出た書籍『九州遺産』に掲載されていた写真でこの旧長崎刑務所を知り、2006年の春に初めて現地で旧長崎刑務所を見、なんとか保存できないものかという思いをつのらせておりました。所有者が国であり、何らかの保存措置はするだろうという淡い期待もしておりました。今年の春、報道で民間業者への売却を知るに及び、このままでは解体されてしまうとの危機感から、ようやく行動を開始したのでした。正直なところ、旧長崎刑務所のことを知るのが遅すぎたというのは事実です。もっと早くに、この旧長崎刑務所のことを知っていればと思います。ただ、解体に着手したいまさらでは遅すぎるということは決して無く、どんな時点であれ保存が主張されたということは、まだ可能性を残しているということです。小生のように、多くの人々が旧長崎刑務所のことをまだ知りません。それらの人々に、この旧長崎刑務所の存在を知ってもらい、残すか解体するかの価値判断をしてもらわなければならないと考えています。ごく一部の役人の判断だけで、国民の貴重な財産を喪失してしまっては、後世に取り返しのつかないことになってしまいます。たとえ、多くの市民が解体を望もうとも、保存すべき価値のあるものは、利害関係抜きに判断し、保存措置が図られなければならないと考えます。
最後に、保存を主張するのは市外の人々だけで市民は解体を望んでいるという、これまでも多くの保存運動で見られた地元が解体を望むという構図の問題です。文化財級の貴重な財産である旧長崎刑務所は、近隣住民や行政地域内の市民のものではなく、広く国民のものであるということを理解すれば、この主張はあきらかに誤りであると納得してもらえると思います。さらに、先にも述べたように、貴重な財産である旧長崎刑務所は、現在生きている者だけの財産ではなく、将来の子孫の財産でもあるということを考慮しなければなりません。小生は、これまでにもこの構図を、空間軸と時間軸の問題として、もっと視野を広げて考える必要性を主張してきました。解体してしまうということは、両軸を断ち切ってしまうということなのです。
以上、市民フォーラムを受けての、小生の感想と回答でした。
なお、この市民フォーラム前後にも、旧長崎刑務所のことが盛んに報道されています。多くの人々に、旧長崎刑務所のことを知ってもらうことが、今いちばん大切なことなのだと思います。
「貴重な西欧風れんが造りを発見 旧長崎刑務所解体現場」(長崎新聞、9月1日付)
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070901/01.shtml
「山下啓次郎と旧長崎刑務所展 市立諫早図書館で始まる」(長崎新聞、8月28日付)
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji2/2007082802.shtml
「旧長崎刑務所正門など保存訴え 諫早市に「考える会」要望書…旧長崎刑務所」(読売新聞、9月4日付)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagasaki/news004.htm
近く、社団法人日本建築学会九州支部より、保存要望書の提出が決まったとのことです。旧長崎刑務所が、学術的にも貴重な物件であるということが、裏付けされました。
西日本新聞8月26日の用語解説「ワードBOX」に、旧長崎刑務所が取り上げられています。
「視点’07ながさき=旧長崎刑務所、年内解体へ 見えぬ跡地の将来像 諫早市 「保存」「開発」ともに課題」
http://www.nishinippon.co.jp/news/wordbox/display/5104/
これを読むと、旧長崎刑務所は近隣住民のとっては「迷惑施設」でしかないようです。シロアリ被害、ぼや騒ぎ、痴漢出没などなど。しかし、これらの問題は、記事にもある通り、旧長崎刑務所そのものに起因する問題ではなく、旧長崎刑務所を15年間も放置し続けてきたことによる管理上の問題です。
地元が保存に反対するという構図は、全国各地で見られます。以前書きましたが、小樽運河保存の際も、地元は運河埋立賛成でした。妥協・折衷案でしたが、何はともあれ小樽運河が残され、今日の観光化した小樽があります。運河を残すことで、その後どのような展開があるかの想像図を描ききれずに、地元は反対したということなのでしょう。
旧長崎刑務所も、残すことで将来どのような展開がありうるかを、具体的に示す必要がありそうです。昨今、旧長崎刑務所のような歴史的価値のある物件は、観光資源としても有望なのです。
西日本新聞の記事によれば、旧長崎刑務所の今後のカギは「用途変更」のようです。確かに、刑務所の用途地域って、何だったのでしょう。刑務所機能移転後の用途地域の指定も、何だったのか興味があります。県や市は、この「用途変更」の権限で、旧長崎刑務所の保存を取引することができそうですネ。
今後の展開が何も決まっていないにもかかわらず、ただ解体だけが押し進められている現状は、本当に許しがたいです。壊してしまっては、取り返しがつかないのですから。
8月31日の市民フォーラムを期待しています。皆で知恵を出し合って、残した後の旧長崎刑務所の活気ある姿を思い描きましょう。
以前から気になっていたのですが、全国を旅していると、丘の上に白いパゴダが建っているのをよく見かけます。どうも、鉄道の大きな駅などから見える位置に建っていることが多いようです。例えば、札幌や釧路、熊本など。
パゴダは仏舎利塔であり、インドのストゥーパが原形です。日本には木造の五重塔や三重塔、多宝塔などの形で伝わりました。パゴダは、ミャンマーやタイなどに伝わった形です。
つまり、現在各地に見られる日本のパゴダは、それほど古いものではないということです。小生の仮説では、伊東忠太設計による大正7年築の名古屋市の日泰寺仏舎利奉安塔が最初ではないかと考えました。その後、昭和初期にいくつか建てられ、昭和30~40年代に各地に建てられたのではないかと考えました。
今回、日本のパゴダのリストを作ろうと思って検索していましたら、すでに「塔婆-現存塔婆と塔婆遺跡」というHPに、「南方式仏塔(パゴダ)」の詳細なリストが載っておりました。
このリストによると、明治44年築の静岡県袋井市の可睡斎護国塔が最初のようで、設計は伊東忠太です。リストでは、大正7年築の日泰寺仏舎利奉安塔は、覚王山仏舎利塔として掲載されています。
伊東忠太が日本に持ち込んだという小生の仮説は、一応正しかったようです。「日本のパゴダの歴史」なんて、どこかの大学で研究しているのでしょうか。建築学というより、仏教系の研究ですかね。
諫早の旧長崎刑務所ですが、とうとう「解体工事のお知らせ」が表示されたとのこと。
お水の花道ブログ
http://myhome.cururu.jp/shinnosuke0113/blog/article/41001341518
九州ヘリテージ
http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=488985
写真から読み取ると、施行者(解体業者)は株式会社中嶋組、発注者は株式会社ユニディオコーポレーションと株式会社新日本建設。
しかし、それぞれの業者さんに言ったところで、仕事を請け負っているだけでしょうから、その大元の発注者(すなわち入札落札者)を探して保存のお願いをするしかありません。いったい落札者は、どこの業者さんなのでしょう?? ちなみに、中嶋組は長崎市、ユニディオコーポレーションは福岡市、そして新日本建設は千葉市の会社です。
実は、居ても立っても居られずに、今月中旬に建築関係の諸団体に対し、下記の「旧長崎刑務所」保存要望書の要望をメールにて発信いたしました。半月ほど経過した現在までのところ、どの団体も何の動きも見受けられませんが……。緊急アピールでも、ホームページ上などに載せて欲しいものです。何とか、一部でも残して欲しい。旧長崎刑務所は、重要文化財級の物件ですから。
チアキさん、ゴン太さん、情報をありがとうございます。
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社団法人日本建築学会九州支部 殿
社団法人長崎県建築士会 殿
社団法人長崎県建築士会長崎支部 殿
社団法人日本建築士会連合会 殿
社団法人日本建築家協会 殿
社団法人日本建築家協会九州支部 殿
社団法人日本建築家協会九州支部長崎会事務局 殿
日本建築学会「歴史的建築リスト整備活用小委員会」で委員をしております前村と申します。
さて、報道などでもご承知の通り、先月、長崎県諫早市の「旧長崎刑務所」が民間の不動産業者に売却され、解体間近となっております。
長崎刑務所の移転後、10年あまり空家のまま放置されたことで、廃墟のような状況ではありますが、山下啓次郎設計の「旧長崎刑務所」の価値は、決して減じるようなことはありません。
これまで世間では、「旧長崎刑務所」についての正当な価値評価が行なわれていないように見受けられます。ぜひとも貴会から保存要望書を出していただき、「旧長崎刑務所」の評価を示し、何らかの形で保存されるようご尽力くださいますようお願い申し上げます。
いつ解体が開始されても不思議ではない今、貴会としても早急に対処し、広く市民に向けて保存の呼びかけを行なうべきではないかと思われます。
微力ではありますが、小生もインターネット上で、ネットワークを通じて「旧長崎刑務所」の存在と価値を広報しております。世間に「旧長崎刑務所」の価値が認知されることが、まず第一と考えております。
来月、九州で建築学会の大会が開催されます。ぜひともこの「旧長崎刑務所」の保存が大きな話題となりますよう、何とぞご協力をお願い申し上げます。
なお、建築学会、建築士会、建築家協会等に対しても、保存要望書を出すよう働きかけを行なっております。
若喜商店レンガ蔵(明治38年築)。登録文化財です。手前が2階建の座敷蔵、奥が3階建の道具蔵。
旧鹿児島県庁本館(大正14年築)。平成14年に旧県庁舎の玄関部分のみを曳家して保存。かつては、市庁舎と同じ市電通りに面して建っていました。曳く前の姿も、そして曳いている最中も、小生は見ることができました。ずいぶん長い距離を、そして横方向への移動だけでなく、縦方向への移動もあって、結構大変な曳家でした。
先月書きました朝日新聞連載「まちは生きていく」が、先週終了しました。全22回の連載でした。朝日新聞の編集委員である、松葉一清さんのコラムです。
前回、下関の回まで報告しましたが、その後紹介された記事は次の通りです。
・横浜市山手地区
・長崎県雲仙市
・北海道恵庭市
・大阪府千里ニュータウン
・千葉県佐倉市
・岡山県倉敷市
ここまでで19回でした。そしてこの後、特定の地域だけでなく、まちおこし、地域活性化の理論や実践を行なう人の話になります。
・そこにあるロハス(西郷真理子さん・地域再生プランナー)
・ヨコハマ事始め(田村明・法政大学名誉教授)
・旅の終わりに(小林重敬・横浜国立大大学院教授)
最終回は、大分県別府市でした。「わが国現存最古をうたう大正時代の『竹瓦小路アーケード』」の報告です。
各地の商店街で、アーケードが暗く壊れたままになっており、シャッターが閉ざされています。しかしその一方で、それぞれの工夫で地域を支え、踏ん張り、まちの再生に頑張っている人々のいることが、今回のコラムで数多く報告されました。アイデア次第で、まちが楽しくなっていくということを、小生も信じたいと思います。
日本基督教団弘前教会会堂(明治40年築)。日も傾いてから弘前に着き、ようやく撮った写真です。弘前は、また改めて撮影に行きます。
今日、島根県の石見銀山が、ユネスコの世界遺産に登録されることが決定しました。一時は登録延期という事態ともなりましたが、まさかの逆転決定です。
世界遺産となった石見銀山の地域には、銀の積出港として栄えた温泉津の町があります。ちなみに、「温泉津」と書いて「ゆのつ」と読みます。ここはその名の通り温泉が沸いており、古い温泉場の雰囲気を残す町並みが続いています。20年位前までは擬洋風の警察署の建物も残っていたのですが、残念ながら解体されてしまいました。しかし、まだ洋風の古い旧共同浴場が残っており、また、数年前に訪ねたときには、いくつかの下見板張りの建物も見つけました。
「世界初の世界遺産登録の温泉」をキャッチフレーズに、温泉津は世界遺産登録に向けて運動を展開していましたが、とうとう本当になりました。ただでさえ細い道路に、沢山の観光客が訪れることになることを思うと、今後が心配です。
まずは、日本で初の産業遺産としての世界遺産登録決定を祝いたいと思います。世界遺産の登録名は、「石見銀山遺跡とその文化的景観」とのことです。
【追記】
ジブリのアニメ映画「もののけ姫」に出てくる「タタラ場」は、この石見銀山の製錬場をモデルとしてイメージしたとも言われています。鉱山は宝を産みますが、必ず鉱毒という問題も生じます。
岩谷歯科医院。建物の前にある案内板は、この建物のものではなく、こみせのある伝建保存地区を紹介するものです。
三上病院。ベランダ部分が妙に古い感じです。思うに、以前は、ベランダ・コロニアル様式の医院だったのではないでしょうか。その部材を使って、新しい建物を建てたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
旧長崎刑務所が、まだ残っていると信じて!!
旧長崎刑務所で検索していたら、「うさたろう日記 はてな版。」に興味深い資料がリンクされていました。平成18年10月10日付の「第55回国有財産九州地方審議会議事録」というもので、この中に、この旧長崎刑務所の民間不動産業者への売却にあたって、一部でも保存できないものかという審議会委員で九州大学名誉教授の樗木武氏の質問に対し、北村管財部長が説明をしています。
「(前略)それから、今、委員のほうから赤レンガ等の旧刑務所庁舎につきましての、文化財としての価値ということでございますが、この建物を文化財として保存するかどうかにつきましては、地元であります長崎県、諫早市が文化財保護法でありますとか、長崎県の文化財保護条例に基づきまして、保存を要するかどうかということを判断されることになっております。本件につきましては、私どもが長崎県、諫早市に確認した結果、いずれも保存することには該当せず、国が売却しても構わないという旨の回答を得た上で、一般競争入札を実施したところでございます。」
北村管財部長の説明では、旧長崎刑務所の保存価値について判断するのは県や市であると言っています。しかし、まずは所有者である国が判断すべきなのではないでしょうか。財務省では価値判断ができないということであれば、文化庁なり、あるいは建築学会なり建築士会なり、価値判断のできるところに聞くのが筋でしょう。この説明では、長崎県、諫早市が、旧長崎刑務所には価値がないと言ったから、保存する必要はないのだと言っています。しかし、本当に県や市は、旧長崎刑務所に価値はないと言ったのか。価値がないと言ったのではなく、保存するお金がないと言ったのではないでしょうか?
国の所有する旧長崎刑務所に対して、県や市が「保存する価値がある」と言うことは、すなわち引き取るということになるのではないか。財政的に厳しい県や市には、そのようなことを言い出すわけにはいかないだろうことは、想像できます。旧長崎刑務所には価値がないと言った当事者は、県や市であるとされていますが、これはすり替えではないか。純粋な価値判断と財政的な判断とは、全く切り離して行わなくては、判断を誤ります。
そもそも、県や市に聞く前に、所有者である国自身が旧長崎刑務所の価値判断をすべきでしょう。北村管財部長の説明では、そのことを、全く無視しています。
長崎県の担当者、諫早市の担当者の方々。旧長崎刑務所に保存の価値なしという誤った判断をしたのは、本当にあなたたちで良いのですか? 所有者としての、国の判断はどうなのですか?
かくして、正当に価値判断をされることなく、国(財務省)によって、旧長崎刑務所は売却され、今や解体寸前となっているのです。国民の、いや人類の、貴重な遺産である旧長崎刑務所が、真っ当な価値判断もされずに売り飛ばされてしまったのです。このことを、ずっと明記しておきたいと思います。
りんご史料館(平成13年築)。黒石の郊外にある旧平果試験場本館(昭和6年築)を撮影しに行ったのですが、老朽化ですでに解体されており、同じ基礎の上に復元されていました。平成11年に、アユミギャラリー主催の「近代建築史への旅スケッチ展」青森展に同行して黒石を訪れたときに、バスからちらりと見たことがあります。旧平果試験場本館は、建物全面が蔦で覆われ、まさに幽霊屋敷のような建物でした。イギリスの園芸研究所「イーストモーリング研究所(East Malling Research)」の建物を模して建てられたとか。
以前の建物の写真は、こちらに載っていました。
http://www.mumyosha.co.jp/guide/hakubutu/aomori/ringo.html
http://www.net.pref.aomori.jp/kuroishi/Sight_Seeing/Sig_Ringo_en_shiryokan.html
先週5月26日午前、北海道小樽市の坂邸が全焼しました。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/28391.html
この建物は、田上義也設計、昭和2年築の洋館で、岩井俊二監督の映画「Love Letter」(平成7年公開)で主人公の家という設定で登場します。
設計者田上義也は、明治32年栃木県生まれ。F.L.ライトの帝国ホテル建設事務所の募集に20歳で応募し、現場でライトやレーモンドに学びます。帝国ホテル完成後、たまたま汽車に乗り合わせた宣教師バチェラーの啓示で北海道に渡り、札幌に個人設計事務所を開設し、道内各地に作品を残しました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~komichi/Home_page/architecture/tanoue.htm
岩井俊二監督の映画「Love Letter」は、中山美穂主演の淡いラブストーリーで、小樽各所でロケが行なわれ、沢山の小樽の近代建築が使われています。なぜか韓国や台湾で大ヒットし、海外からの多くの観光客が小樽を訪れロケ地めぐりをしています。
建物の焼失は、取り返しのきかない悲しい出来事です。せめても、失われた建物に残された物語を映像で呼び起こし、記憶にとどめたいと思います。
映画中、図書室でのエピソードは、小樽ゆかりの作家伊藤整が小林多喜二の思い出として書いているものに似ています。そのエピソードをもとに、小生も高校時代に小説を書いたことがありました(汗)。
昨日の旧医院の並びに建つ、これも旧医院か? 10年ほど前に中津を訪れたとき、すでにポーチ部分が傾いていましたが、現在は空家のようです。
今月、北海道新聞社より『道東の建築探訪』が発行されました。
このシリーズが全6巻だったとは知りませんでしたが(笑)、今回の道東編で完結とのことです。
思えば、1995年に『小樽の建築探訪』が出、その後1997年に『函館の建築探訪』、1999年に『札幌の建築探訪』と続きました。これで終わりか、あるいは旭川か帯広あたりか(でも、1冊にするには物件が少ないかナ~)と思っていたところ、2000年に『旭川と道北の建築探訪』が出版されました。これで、都市以外の場所の建物もフォローすることがわかり、次は道南、道東もあるだろうと期待しておりました。その後、少し時間がかかりましたが、期待通りに2004年に『道南・道央の建築探訪』が発行され、そして今年2007年に『道東の建築探訪』が発行されたのです。
時間がかかってしまったために、発行までの間にも解体されてしまった建物も多く、本当に残念でなりません。しかし、こうして道新(北海道新聞社のこと)のおかげで、北海道の全地域をカバーする素晴らしい写真集が6巻も発行されました。記録としても、探訪者や観光客などの実用としても、とても貴重な資料です。そして、北大の角幸博先生をはじめとする執筆陣の方々に、お礼を申し上げます。素晴らしい本を、ありがとうございました。
他の都府県でも、こうした本が続々と出版されることを期待したいと思います。商売になりますよ(笑)。地元新聞社の方々、どうぞ、よろしくお願いいたします。小生も、全力を挙げてご協力いたしますので。
2002年の夏、アサヒビール福岡工場に見学に行った折、ガイドの方に頼んで撮影させてもらった敷地内の赤煉瓦の建物です。数年前に解体されてしまったとのことで、今となっては貴重な記録となりました。
こんな赤煉瓦の建物が工場内に残っていることを知らず、驚いて、見学コースが終わった後で頼み込んで、逆戻りして撮影させてもらいました。九州方面に大きな台風が上陸しているときで、見学者は小生1人でしたが(笑)。
煙突の上にある兜状のものは、古いビール工場には必ずある、風向きによって煙の向きを変えるフードです。
ガラス越しの撮影だったり、ピンボケですが、ご容赦を。本当に、惜しいことをしました。
先週木曜日、会社帰りに「藤森建築と路上観察」展を見てきました。
この「藤森建築と路上観察」展は、昨年イタリアで開催された第10回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展の、凱旋帰国展です。イタリアの人々に、この奇妙な藤森建築が理解できたかどうか……。写真は樹上茶室ですが、まるで「ゲゲゲの鬼太郎の家」です。
また、路上観察学会の活動の記録のスライドは、懐かしく見入ってしまいました。もう、20年以上前の写真ですから。トマソンとか、純粋階段とか、原爆物件とか。本当に、懐かしいなぁ。
新宿の東京オペラシティアートギャラリーで、7月1日(日)まで。
http://www.operacity.jp/ag/exh82/index.html
大谷石の石倉ですが、手前のテラス状になっている部分が四角い石蔵の原型のようにも思われます。
前回一関を訪問したおり、日没で撮影することができなかった小さな建物です。明治時代の地図を見ると、このあたりは郡役所のあった区画で、現在も向かいは裁判所です。しかし、何の建物なのか見当がつきません。交番か、床屋か。左右対称の整った建物です。
旧第十七師団偕行社(明治43年築)。偕行社とは、旧陸軍の福利厚生施設で、将校の社交場だった建物です。偕行社の建物は、旭川(第7師団)、弘前(第8師団)、金沢(第9師団)、善通寺(第11師団)、豊橋(第15師団)など、結構各地に残っています。ちなみに、旧海軍の同様の施設は水交社です。
今日午前より、続々と仲間が集い、2時間ほどで設営が完了いたしました。集まって下さった皆さん、お疲れさまでした。
今回のオリジナルは、全国のスクラッチタイルの建物のコーナーです。会場である天満屋ビルとそっくりな形の建物が、あちこちに残っています。おそらく、どこかにモデルになる建物があり、それが各地に建てられたのではないでしょうか。そして、今は残っていなくても、きっとどの都市にも、似た建物があったのではないかと思います。
角地に建ち、コーナーがアールを描き、丸窓があるスクラッチタイルの建物。
昨年とはまた違った写真も集まりましたので、ぜひ、お出でください。
旧寿湯。昨年秋に訪れたときに、廃業のお知らせが出ていました。現在は、販売物件です。南小倉駅前にあります。
「まちかどの近代建築写真展IN大阪天満屋ビルII」
会期:3月5日(土)(月)~4月7日(土)
(3月3日(土)午前に設営を行ないます)
時間:11:00~18:00(定休日:水曜、日曜)
会場:お茶と雑貨のハaハaハa
大阪市港区海岸通1-5-28 天満屋ビル2階
主催:お茶と雑貨のハaハaハa
企画:まちかどの近代建築写真展実行委員会
協力:近代建築探訪メーリングリスト
昨年に続き、「海岸通建物語りPART2」というイベントの企画として、写真展を開催いたします。
以降の予定
・「まちかどの近代建築写真展IN松本」
4~5月頃開催計画中
昨日、2月10日(土)より、文京区の根津教会にて、「まちかどの近代建築写真展IN根津」が開幕しました。
午前中に設営をいたしましたが、設営中から思いの外多くのお客様にお出でいただきました。
2月17日(土)までの1週間の会期ですが、お近くにお出での折は、ぜひお運びください。
あわせて、登録文化財物件の根津教会内部の見学もできます。
原歯科医院。現いわき市の中心市街地です。小道さんのブログで、とんでもない建物が沢山残っていることを教えられ、探訪することにしました。日没まで半日歩きましたが、お宝物件が妙に残っています。駅前の再開発ビル工事が痛いです。
昨年ヒットした映画「フラガール」の舞台の町(本当は合併前の常磐市です)でもあるわけですが、映画効果はあまりない感じです(泣)。
角本金栄堂(昭和7年築)。駅前通と交差するアーケード通の角地に建つ、典型的な「まちかどの近代建築」です。
昨日、仕事が終わってから、建築博物館で開幕した「建築家山田守展」へ行ってきました。午後6時頃でしたが、結構入っておりました。
展示は、壁面全面に図面と写真、そして建築模型が8点14点ほど。パーテーションは立てず、余裕のある展示です。個人的には、建物の写真がちょっと少ないかナ~。ケースに、スケッチや手紙などがありました。
一番の見どころは、現存作品のスライド上映ではないでしょうか。写真展示の代わりにスライド上映を行なうのは最近の展示の傾向で、この建築博物館での伊東忠太展のときもそうでした。築年順に、細部まで撮影された各地の山田守の作品が上映されています。
山田守の病院はどれもY型で、マタの部分に開口部を設けています。車寄せの庇が、初期は漏斗型でしたが、その後は平らなものに落ち着いてきています。京都タワーの原型が、東海大学で試されていたり。山田守は、円やY型、X型など、平面図での形から入る建築家だと思いました。
戦後の作品は、戦前の逓信省時代の作品とは全く異なる、別人の作品のようです。こうなると、山田守にとって戦前の作品は習作だったのかも知れません。
これまで、小生の守備範囲である戦前までの近代建築に関心を向けてきましたが、山田守の戦後の作品も見ておかねばと感じました。
日本建築学会建築博物館で、来週火曜日より企画展「建築家山田守展」が開催されます。
http://www.aij.or.jp/jpn/hall/gallery/gallery.htm
山田守といえば、小生の認識では、分離派建築会で、旧逓信省の数々の特徴的な建物や聖橋の設計者という認識ですが、日本武道館や京都タワーなども彼の作品でした。
小生の認識は、これまでに語られ文献に表されてきたごく一般的な認識だと思います。今回の展示では、そういった戦前の作品だけでなく、生涯にわたっての全貌を網羅し「再評価を試みるもの」とのことです。
「建築家 山田守 展 -流動するフォルムにみた合理性-」
開催期間/2006年12月12日(火)-2007年1月31日(水)、12月30日~1月4日は閉館
開催場所/日本建築学会建築博物館ギャラリー(港区芝5-26-20 建築会館内)
入場無料
また、シンポジウムや見学会も予定されています。シンポジウムも面白そうです。
シンポジウム「再考/山田守の後期の作品を検証する~京都タワーを中心に~」
開催日時/2007年1月13日(土)午後1~4時
パネリスト/井上章一(国際日本文化研究センター教授)
岩岡竜夫(東海大学教授)
藤森照信(東京大学教授)
(司会)藤岡洋保(東京工業大学教授)
開催場所/建築会館ホール(港区芝5-26-20 建築会館内)
参加費/無料、当日先着順、定員300名
見学会
2007年1月5日、午後2時~4時/山田守自邸
参加費/無料
定員/申し込み先着60名
予約申込先:日本建築学会事務局
メール: tosho@aij.or.jp
ファクス:03-3456-2085
豊岡市役所(昭和2年築)。旧豊岡町役場として建てられた建物です。広い敷地の奥に建ち、車寄せがあり、前庭がありという豪華な建物です。中尾さんのHPにある竣工当時の写真を見ると、3階部分と傾斜屋根は後の増築で、当初は中央部が塔屋になっている2階建ての四角い建物だったようです。
「まちかどの近代建築写真展 IN 下関」が、10月21日(土)に開幕いたしました。山口銀行さん、下関市教育委員会の高月さんのご協力・ご尽力により、山口銀行旧本店を会場に開催することが実現いたしました。当日、午前8時30分より設営を開始し、11時までには全てを無事完了いたしました。お仲間の津村さん、そして九州大学の学生さん4名にもご協力いただき、試行錯誤しながらも素晴らしい展示となりました。会期は、10月27日(金)までです。
2004年より始まりました「まちかどの近代建築写真展」ですが、この度、山口県下関市の山口銀行旧本店(山口県指定有形文化財)を会場に開催することが決まりました。
お近くの方は、ぜひお出でくださいますよう、お知らせ申し上げます。
「まちかどの近代建築写真展 IN 下関」
・会期:2006年10月21日(土)~27日(金)(22日の日曜日は休)
10:00~17:00(21日午前に設営、27日午後に撤収)
・会場:山口銀行旧本店(山口県指定有形文化財)
山口県下関市観音崎町10-6
・主催:「まちかどの近代建築写真展 IN 下関」実行委員会
・料金:無料
「近代化遺産全国一斉公開2006」公開事業の関連行事として開催いたします。
「円形校舎」についての情報提供の呼びかけに対し、いくつかの情報をいただきました。今回、リストに追加するとともに、修正を行ないました。
http://www.jmam.net/b/kindai/enkei.htm
さらに調べてみたり、独断で考えたりしたことも、加筆いたしました。バウハウスの「コーンハウス」や、「梅鉢型園舎」のことなどです。
「円形校舎」の設計者として、「坂本鹿名夫」という建築家の名が挙がってきます。円形建築で特許をとったとか。もっと経歴などが判れば良いのですが。
また、「円形校舎」の研究者として、八代高専の森山学氏、北海道大学の角幸博氏が、論文を書いておられます。
各地の円形校舎が、とくに耐震基準などの関係で「危険建物」と判断され、解体寸前となっているとの情報も入りました。円形校舎は、地震に対してどうなのでしょうか。耐震補強も、難しそうです。専門家の方の、良いお知恵をいただければ幸いです。
円形病院というのも、結構多く建てられたようです。
8月24日の官報で、鹿児島県瀬戸内町の「奉安殿」6棟が登録文化財に登録されました。
これを機に、現存する「奉安殿」を調べてみようと思い、ネット検索で確認できたものをリストアップしてみました。「奉安殿」には、独立棟型と屋内型とがありますが、このリストは「独立棟型」に限定したリストです。
http://www.jmam.net/b/kindai/houanden.htm
調査前の予想では、各県に2~3棟平均として、現存する「奉安殿」は100~200棟程度ではないかと考えておりました。しかし、調査を進めてみると、結構残されている感触です。
「GHQにより解体」とばかり思い込んでおりましたが、「解体」ではなく「撤去」の命令だったようですね。
現存する「奉安殿」は圧倒的に神社型のものが多く、神社・寺院などへ移築・転用されています。個人的には、ギリシャ神殿風などの神殿型が好きです。調査前に、小生が目にしていた「奉安殿」はすべてこの神殿型でしたので、神殿型のほうが多く残されていると考えておりました。
リストの記載事項の不備、また、未掲載の現存「奉安殿」の情報などをお寄せいただければ幸いです。
昭和30年代に、全国で100カ所ほど建てられた「円形校舎」ですが、現在、そのほとんどが解体されてしまっています。
旧明倫小学校(鳥取県倉吉)
数年前に、「円形校舎」のページを立ち上げ、全国の円形校舎リストを作り、情報提供を呼びかけました。円形校舎に学んだ方々にとって、円形校舎はとても鮮烈な印象を残しているようで、多くの情報をお寄せいただきました。
http://www.jmam.net/b/kindai/enkei.htm
「円形校舎」でブログ検索をすると、同窓会があったり帰省したりで、円形校舎に再会した思い出が語られています。まだ、リストアップできていない円形校舎も多々あるようです。
引き続き、円形校舎の情報を求めます。円形校舎で学んだ方はもちろん、近所にあったという情報、また、円形校舎で教鞭をとったという方の、円形校舎についての印象などもお寄せいただければ幸いです。
小樽生まれとは言え、物心付いた時には小樽を離れており、幼い日々に小樽を駆け回っていたというような記憶はありません。毎年、親戚の家に遊びに行く程度の心細い土地勘でしたが、今回、2日間に渡って小樽を縦横に歩きまわり、位置関係がようやく呑み込めました。
1日目は小樽駅の駅前通りより左側(手宮側)の地区を、そして2日目は右側(札幌側)の地区を歩きました。それぞれ、点として見知っていた建物の位置関係が、ようやく掴めました。市役所を中心に、左右に警察署と消防署、そして稲穂小学校が一直線上にあったとは気付きませんでした。
小樽駅(昭和9年築)
ちなみに、稲穂小学校の円形校舎は、平成6年に解体になったとのことでした。昭和36年築とのことでしたから、35年程度の短い寿命だったことになります。
円形校舎について、小生がまとめたページ
http://www.jmam.net/b/kindai/enkei.htm
お盆休みに、小樽、函館を歩いています。今年は、悲しい情報ばかりです。
まず、小樽では、高島の旧吉田医院が6ヶ月ほど前に解体。すでに更地となっていました。大好きな銭湯だった鹿の湯も、昨年11月に解体とのこと。更地になった敷地の前に立ち、呆然としてしまいました。
旧吉田医院
鹿の湯
函館では、元町の旧今井百貨店が、解体の真っ最中。北海製罐の工場も跡形もナシ。角地に塔屋の付いた旧函館水上警察署(函館市大町13)の建物も解体中。いったいどうなっているのだろう。
旧今井百貨店
北海製罐
旧函館水上警察署
前村姓関わりで、「前村洞和」という絵師の存在を知ったのは、河鍋暁斎の自伝の記述からでした。土佐藩お抱え絵師で、江戸の本郷に居を構えており、河鍋暁斎の師であったと(河鍋暁斎も本郷在)。
知り得たのはこれだけの情報だったのですが、それからというもの「前村洞和」はどんな絵を描いていたのかをぜひ見たいものだと思っておりました。
ちなみに、河鍋暁斎と言えば、日本近代建築の父であるジョサイア・コンドルの日本画の師匠として有名ですよね(先日、ようやくジョサイア・コンドル著『河鍋暁斎』を読み終えたところです)。前村洞和から見れば、コンドルは孫弟子ということになりますか。コンドルの号は「暁英」。
さて、「前村洞和」で検索していたところ、遠藤英彰さんの「人生の謎学」ブログに、思わぬ記述を見つけました。
http://synch.at.webry.info/200605/article_5.html
「土佐の絵金」こと金蔵も、前村洞和の弟子であったと(洞意の号が与えられたとのこと)。河鍋暁斎の兄弟子にあたります。土佐関わりであり、絵のタッチなども似ているとは思っておりましたが、絵金と河鍋暁斎は、前村洞和によって繋がるとは。
高知県香南市赤岡町では、毎年夏「絵金祭り」が開催されており、ぜひ一度見に行きたいと思っておりました。何だか絵金も、少し身近に感じられるようになりました。
http://www.kochi-shokokai.jp/akaoka/ekinmaturi.html
旧中村商店(明治45年築)。再開発で空地となった駅前の区画のとなりにあり、とても目立ちます。
旧味湾海倶楽部(昭和5年築)。手前に、町家の建物が接続しています。現在、ドレスメーカー学院として使われていますが、どんな建物かわかりませんね。『近代建築ガイドブック』の写真でも、かろうじて飾りの付いた建物の外観が見えますが、現在は外壁をすっかり覆ってしまっています。屋上には、八角形の展望台があるとか。
どのくらい前の建物かわかりませんが、伊東忠太の築地本願寺系の寺院です。けっこう各地に、この手の寺院があります。
「前村記念博物館ブログ」を、新しいブログソフトに引越します。
昨年10月来、解体のための仮囲いに覆われていた上野駅前のじゅらくビルですが、ほぼ解体も終わり、覆いが外されはじめました。そして、出てきたのがこの写真の光景です。
京成上野駅へ通じる入り口部分と、工事事務所となっていた部屋(工事前は靴屋さんがテナントでした)の部分です。ここは、このまま保存されるのでしょうか? 上部を見ると、スクラッチタイルと、ゴチックデザインのビルの一部が残されています。写真右手、ビルの角が丸くなっているのも、ビルが建ったときの時代を物語っています。石貼りの柱も、重厚です。
先週、岐阜へ行ったおり、旧金津遊廓はどのあたりにあったのだろうかということを、たずね歩きました。
現在、JR岐阜駅の南口には、金津園という一大ソープランド街があります。ここは、昭和33年の売春防止法の施行までは、金津遊廓でした。しかし、こんな駅前にある遊廓など、他の場所では見かけません。いろいろ調べてみると、昭和26年に工場跡地に誘致して、金津遊廓が引っ越してきたのだとか。
実は、この引っ越し前にも金津遊廓は移転を繰り返しています。『ソープランド物語』によれば、明治21年に開設された金津遊廓は、現在の柳ヶ瀬にあったとのこと。岐阜市歴史博物館で見た写真にも、柳ヶ瀬の繁華街の突き当たりが金津遊廓、というものがありました。それが、あろうことか昭和18年に、空襲を避けるために岐阜市の郊外に遊廓全体で疎開したのだとか。昭和26年の引っ越しは、この疎開先からのものです。
ということで、柳ヶ瀬の周辺に、かつての金津遊廓の名残などはないかと探してみたわけです。岐阜は、空襲で大分やられていますし、引っ越しの跡地ということですから、あまり期待はできません。
南北に走る電車通り(電車は近年廃止されてしまいましたが……)の東側の区画は、花街のようです。ビルの2階に「岐阜芸妓組合」の看板を見つけました。これは、検番ですよね。金津遊廓は、西柳ヶ瀬ということですから、逆方向か?
近所ののはら浴場という銭湯に入ったのですが、ロビーに、かつての野原浴場の写真が何枚か飾ってありました。モルタルの洋館で、ずいぶんと凝ったデザインでした。
思い返すと、物心ついたときに一番好きだった絵本は「そらいろのたね」でした。「おうち好き」は、そんな昔に始まっていたのか??
数年前、日本テレビのキャンペーンで、スタジオジブリ製作の「そらいろのたね」が放映されたとき、あちこちに語りまくりました。それが収録されたDVDが発売されました。
ひよこの小さなおうちと、みんなが集う大きなおうちが、好きでした(笑)。
帯広には、面白い建物が沢山残っています。数年前には、もっと沢山の建物が残っていたのですが、それでも、まだ残っているほうです。
この建物は、地元の商社の本社事務所。辰野式と書きましたが、辰野金吾の設計ではありません。しかし、どう見ても、東京駅の亜流ですよね。近年まで、入口のシャッターに社名が書かれていたのですが、今回行くと消されていました。悲しいニュースにつながることでないことを祈ります。
函館の旧丸井今井百貨店です。
いつも元町の市電通り側からしか見ることがありませんでしたが、今回、別の通りからふと前を見ると、素敵な塔屋が見えました。上海の摩天楼のようです(行ったことはありませんが)。元町から、丸井今井百貨店が撤退して後、市役所の水道局として利用されていましたが、それも別の建物に移り、現在は空き家です。
日本で鉄道が開通した10月14日の「鉄道記念日」にあわせ、数年前より「鉄道の日記念きっぷ」が発売されています。「青春18きっぷ」と同じように、JR全線乗り放題のきっぷですが、期間が短く、1日あたりの料金が少し高いのが難です。
さて、今年のポスターは、全国のJRの古い駅舎24か所の写真です。画像が悪いのですが、ご容赦を。
中越の続きで、三条です。昨年の水害、そして地震とで、大きな被害がありましたが、しっかり復興しておりました。西本願寺三条別院という、とても素敵な建物があったのですが、数年前に解体したとのこと。残念でなりません。
北三条駅前にある医院。このあたりが、三条の旧市街の中心にあたります。
現役の医院。
こちらも、現役の医院。
郷土資料館の建物。まるで、寺院のようです。
店蔵ですが、軒を支える飾りが、アールデコです。
東三条駅へ向かう途中で見つけた、煉瓦倉庫。
美容院に使われております。
昨日、新潟県の中越地区を歩いてきました。まず、新津から。
市役所そばで見つけた「風俗の洋館」です。キャバレーになっている洋館は、珍しいのでは?
こちらは、駅前通りの事務所。タイルの色が綺麗でした。
旧銀行。
現役の医院。地震によるものか、車寄せの左側が50センチくらい下がったままです。建物全体も、左側に下がっているように見えます。
先日、文京区の町歩きの際に出会った、洋館付き洋館ともいうべき物件。手前の洋館は、いわゆる洋館付き住宅と同じく後の建増しで、応接間なのでしょうが、後方の主屋が、生粋の下見板張りの洋館であるところが驚きです。
夕方、帰宅途中の御徒町の食堂の前で、いつもお店の中を眺めている猫さんがおります。この猫さんのほか、家族でしょうか、数匹並んで眺めていることもあります。今日、カメラを持っておりましたので、後ろ姿を撮影しました。
本荘の隣町である仁賀保町にある松野医院の建物。本荘もそうでしたが、驚くべきことに、今も現役の医院です。大正8年築。仁賀保の駅前にあります。
(2005年7月撮影)
旧水上歯科医院、昭和7年築
この建物は、小生の故郷・小樽で一番オススメの建物です。最初見つけたときには、こんな建物が小樽にあったのかと驚きました。南小樽(通は「南樽(ナンタル)」と呼びますネ)の駅の近所です。南樽付近は公立病院があり、そのまわりに個人医院が沢山あります。つい近年まで(と言っても、もう10年以上前か)は、珠玖小児科医院など、とてつもなく素晴らしい建物もあったのですが……。
(2005年7月撮影)
伊予鉄道三津駅(昭和7年築)
山谷運送部(大正末築)
石崎汽船(大正14年築)
前田海運
濱田医院
(2005年8月撮影)
武雄温泉の横道に入ったところで見つけた建物。医院か、役所ではないかと思われます。
武雄温泉の楼門そばにある水月堂菓子店(昭和7~8年築)。
辰野金吾設計の武雄温泉楼門(大正4年築)。この度、重要文化財に指定されました。
同じく、辰野金吾設計の武雄温泉新館(大正4年築)。屋根も落ちて廃墟寸前でしたが、この度修復も終わり、重要文化財となりました。
(2005年8月撮影)
このお盆休みに、約半年ぶりに、愛媛県の道後温泉へ行ってきました。
ここ数年、温泉をめぐるさまざまな問題が表面化し、道後温泉でも温泉に塩素を入れることが決まり、議論が沸騰しておりました。それが、いよいよ今年より実施されたのですが……。
専門的な議論は素人にはわかりませんが、明らかに泉質が変わっていることが実感できます。泉質が妙にサラサラなのです。以前は、石鹸を洗い流しても、石鹸の成分と温泉の成分によるのでしょう、ヌルヌル感が残るような状態だったのですが、今回は、全くそのようなことがありません。まるで、銭湯のような感覚です。
塩素を加えても大して温泉成分に変化はない、という分析結果が貼り出してありましたが、塩素臭がするとかいう点以外にも、明らかな違いがあります。
道後温泉本館の入泉料も値上げされておりました。本館近くの椿の湯は、旧来通り値段据え置きです。同じ源泉ですから、温泉に入るのなら、椿の湯のほうが、空いていて良いです。
道後温泉の塩素の投入は、今後、もっと問題となることでしょう。
ネットで検索してみると、「塩素殺菌による温泉水の変化」という、日本温泉総合研究所の報告もありました。
写真は、2001年12月に撮影した、道後温泉本館です。
すいませんでした!!
ブログを自前サーバで運営しはじめてから、どうもレスが付かないナ~と思っておりましたら、設定ミスでレスが付けられなかったのですね。試みられた方、すませんでした。
この「前村記念博物館ブログ」に、誰もたどり着いていない、というウワサもありますが。
何か不具合がありましたら、ぜひ、ご一報くださいネ。
今日も、小生の突飛な仮説です。何の根拠もない、単なる直感です。
東京都文京区に、武田五一設計の求道会館(大正4年築)があります。長らく廃墟然としておりましたが、近年修復工事も終わり、東京都の有形文化財に指定されています。建物は、外観・内部共、西洋の教会のような造りですが、実は仏教の施設なのです。内部の正面中央奥に、六角堂が奉られていることが、大変印象的です。
この求道会館のプランが、のちの奉安殿(奉掲所)になったのではないかというのが、小生の仮説です。武田五一が、奉安殿の原型を造ったのではないかということです。
奉安殿とは、戦前、各学校に、御真影(天皇・皇后の写真)を保存してあった倉庫であり、講堂の中央には、儀式の際に御真影を奉る奉掲所がありました。広義には、奉掲所も奉安殿と呼んでいます。求道会館のプランは、この奉安殿(奉掲所)に似ているのではないかと小生は考えました。
洋風の講堂の正面中央の壁に、別の建物(祠)が付けられている。講堂・ホールなどの椅子席の建物の中に、別の建物を建て込む例は、奉安殿(奉掲所)と能楽堂が同じ時代だったと記憶しております。求道会館の例は、それよりも早い例になるのではないかと考えます。
そういえば、京都観世会館の隣に、武田五一設計の有鄰館がありますね(全然、関係ない)。
これはあくまでも、小生の勝手な仮説なのですが、関西では大正~昭和初期に温泉ブームがあったのではないかと考えています。
その温泉ブームのきっかけは、大正2年に大阪の新世界に登場した「噴泉浴場」、通称「ラジウム温泉」だったのではないかと考えています。建物は洋風で、それまでの和風の温泉旅館とは全く違う、ちょっと前のヘルスセンター、昨今のスーパー銭湯のような、1日を楽しく過ごせる施設だったようです。
この「ラジウム温泉」が大人気で、その影響なのでしょう、大阪市内・近郊の銭湯も洋風の建物が多くなり、現在も登録文化財に登録されるような銭湯がいくつか残っております。また、関西では、銭湯が温泉を名のる例の多いのも、この新世界の「ラジウム温泉」の影響なのではないかと小生は考えます。
本物の温泉地でもこの影響を受け、大型の共同浴場を建築家に依頼し、集客を図ったのではないでしょうか。武田五一の温泉施設も、この流れの中にあるのではないかと考えます。
ちなみに、関東では同じ時期に、寺院のような唐破風の付いた銭湯の建物が流行ります。
余談として、関西の銭湯は、円形や小判型の浴槽が洗い場の中央にある例が多く、関東では、四角い浴槽が洗い場の一番奥の壁についている例が多いものです。小生は、関西の銭湯が、温泉の共同浴場のマネをしたものではないかと考えています。洗い場中央の湯船から湯を汲み、身体を洗うのです。関東のように、一辺しか洗い場に面していない浴槽では、湯船から湯を汲む方式では、多くの客をさばくことができません。必然的に、洗い場にカランが多く並ぶことになります。関西では、基本的にはカランは洗い場の周囲のみです。
「建築家・武田五一展(仮称)」としてお知らせしてきた、文京区の文京ふるさと歴史館の特別展の正式タイトルが決まりました。
文京ふるさと歴史館 特別展のご案内
「近代建築の好奇心 武田五一の軌跡」
武田五一(1872~1938)は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した、近代日本を代表する建築家のひとりです。その活動は関西が中心でしたが、東京帝国大学に学び、西片に住み、求道会館(本郷6丁目、大正4年)・求道学舎(大正14年)という建築作品を残した文京との関わりにも注目されます。今回の特別展では、建築のみならずデザイン・工芸・インテリアの分野や、教育者として、また文化財保護にも貢献するなど、極めて多岐にわたる活躍をした武田五一について、文京・東京での足跡を中心に、その生涯と作品を紹介します。
主 催:文京区教育委員会・文京ふるさと歴史館
企画協力:武田五一展ワーキンググループ、名古屋市美術館
後 援:明治美術史学会
会 期:平成17年 10月22日(土)~12月4日(日)
開館時間:午前10時~午後5時 休館日:月曜日
入 館 料:一般300円・団体(20人以上)210円
中学生以下・65歳以上は無料 ※11月3日は無料公開日
記念講演会:「武田五一とアール・ヌーヴォー」
講師/足立裕司氏(神戸大学工学部建設学科教授)
日時/11月12日(土)午後2時~4時
会場/求道会館(文京区本郷6-20-5) 参加費/無料
定員/90人(超えた場合は抽選)
申込方法/往復葉書に「記念講演会」、住所、氏名、電話番号を明記し、返信用にも宛名を記入の上、ふるさと歴史館までお送りください。10月27日必着。
まちあるき:「五一ゆかりの文京を歩く」
日時/11月19日(土)午後2時~4時
コース/(1)東大コース (2)西片コース
※(1)(2)とも求道会館集合、内部見学ののち、各コース別の見学となります。
案内/五一展ワーキンググループ・メンバー
定員/各コース40人(超えた場合は抽選)
参加費/80円(保険料実費) 申込方法/往復葉書に希望コース番号、住所、氏名、電話番号を明記し、返信用にも宛名を記入の上、ふるさと歴史館までお送りください。11月1日必着。
求道会館一般公開日:10月22日(土)、11月26日(土) 午後1時~2時30分
申込/不要、当日会場まで 所在地/文京区本郷6-20-5
関連企画 :名古屋近代建築運動史の群像Ⅰ 武田五一 ―建築意匠と装飾― 〔仮称〕
会期/平成18年1月28日(土)~3月26日(日)
会場/名古屋市美術館(名古屋市中区栄2-17-25 052-212-0001)
文京ふるさと歴史館 〒113-0033 東京都文京区本郷4-9-29 ℡ 03-3818-7221
http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/rekishikan/index.html
丸ノ内線・大江戸線本郷三丁目駅または三田線・大江戸線春日駅下車徒歩5分、都営バス真砂坂上下車徒歩1分
4月よりgooのブログサービスを利用しておりましたが、この度、自分のドメインで自前のブログを運営できることがわかりましたので、さっそく、お引越しです。
また一から広報しなければ、です。
話の順番が逆になってしまいました。武田五一が関わった温泉は、現在のところ3つが確認されています。これは、武田五一マニアの小林淳男さんの労作によります。
・石川県山代町「山代温泉共浴場」昭和4年
・石川県山中町「山中町営共同浴場(総湯「菊の湯」)」昭和5年
・和歌山県白浜町「崎の湯」昭和9年
これらは、残念ながら、いずれも現存しておりません。
山代温泉と山中温泉は、同じ加賀温泉郷にある隣町です。当時、山代温泉、山中温泉、そして和歌山県の白浜温泉共、鉄道が発達し、大阪から半日程度で行けるようになって賑わいはじめた温泉地でした。南と北ですが、大阪からの距離では同じような位置にある温泉地です。
和歌山県白浜温泉の「浜の湯」の建物も、武田五一の建物の特徴があり、あるいは武田五一物件かも知れません。また、同じ昭和初期の共同浴場としては、島根県江津市の有福温泉「御前湯」が現存しています。写真は、昨年小生が撮影してきた「御前湯」です。武田五一とは関係のない建物ですが、同時代の共同浴場として、白浜温泉「浜の湯」と似た点が見受けられます。
ずいぶん前から居酒屋さんの入っているビルです。数年前、建物全体がシートで覆われたときには、解体されてしまうのではないかと心配しましたが、塗装工事でした。
「梅鉢」と「梅皿」について書きます。
一昨日、「梅鉢型幼稚園」のことを書きました。「真上から見ると梅鉢のような形をしている」とも書きました。では、「梅鉢って何?」ということなのですが、小生、すっかり勘違いをしていたようです。小生がイメージしていたのは、「梅鉢」ではなく、日本画などで使う「梅皿」でした。
「梅鉢」とは、イコール「梅鉢紋」のことを指すようですね。「梅鉢紋」とは、天神様(菅原道真)の家紋で、加賀の前田家の家紋も「梅鉢紋」として有名です。丸5つを花弁に見立て、中央に小さな丸を置いた、梅の花を図案化したものです。
もう一つ、「梅鉢」というと、焼き物を指す場合があるようです。落語「猫の皿」にも出てくる「高麗の梅鉢」というのがそれで、要は、梅鉢紋の絵柄の付いた高麗製(実際には中国製)の抹茶茶碗で、名品として、高価なことで有名であったようです。
落語「猫の皿」の「高麗の梅鉢」を思い出したのは、先週のTVドラマ「タイガー&ドラゴン」に出てきたからなのでした。
ということで、「梅鉢型幼稚園」の「梅鉢型」とは、家紋の「梅鉢紋」の形をしたという意味でした。「梅鉢紋」よりも「梅皿」のほうが、似ているとは思うのですが。「梅皿型幼稚園」では、ちょっと格が落ちるような気もします。「梅鉢」だと、天神様ですし、高級なイメージですし。
「円形校舎」という建物がございます。
といきなり書いても、わからない方にはちっとも見当がつかないかも知れませんが、昭和30年代に日本各地で、全部で100棟くらい建てられた学校の校舎です。「円形校舎」というくらいで、真上から見るとドーナツ型をした建物で、各教室はバームクーヘン(正式には独語でバームクッヘンか)を切り分けたような形状になっております。
昭和30年代に各地で建てられたのですが、その後すっかり廃れてしまって、とんと新築されたという話は聞きません。しかし、この円形校舎で学んだ方や、地元に円形校舎があったという方にとっては、とても印象深い建物だったようでして。
それが、ここ最近、老朽化・耐震化で、建替えという話が進んでおります。それに加えて、少子化による廃校も。現役で使われている「円形校舎」は、もう30棟を切るのではないでしょうか。
「円形校舎」について、以前、ちょいとまとめてみたことがあります。
「円形校舎」
一時流行った建物が、消えて行くというのも、寂しいものです。
先日、知人と話をしておりましたら、「母校が円形校舎だった」という、何とも奇遇な出会いもございました。
群馬県伊勢崎市の旧伊勢崎市立女子高校のように、市で転用して保存することになった事例などは、本当に珍しいことです。
「うちの近所にも、円形校舎があったよ」という方、「円形校舎で学んだよ」という方、ぜひどんな風だったのかを、お知らせください。
「竹筋コンクリート」って、ご存じですか?
近代建築マニアの間では、岩国の「徴古館」という博物館が、昭和20年築の竹筋コンクリート造の建物として有名なのですが、これ以外の現存建築があるかどうかについて、興味を持っています。
実は先月、岩手県の一戸という町で、竹筋コンクリート造の旧銀行の建物に出会いました。確かなことはわかりませんが、竹筋コンクリート造であると伝えられているそうです。
土木系では、橋などで、竹筋コンクリート造のものがいくつか残っています。登録文化財になっている熊本県小国町の旧国鉄宮原線のアーチ橋などがそうです。他にも、九州各地や北海道などで、竹筋コンクリート造と伝えられている橋梁があります。
竹筋コンクリートは、戦前から戦中にかけて、金属不足のために、鉄筋の代わりに竹を代用したもので、そこそこ強度はあるようなのですが、造られてから長い年月が経って、果たして強度が落ちていないのか?
ご近所に、竹筋コンクリートの建物があるという方、ぜひお知らせください。とても貴重な建物です。
こんにちは。前村と申します。
1995年末より、「前村記念博物館」というウェブサイトを開設しております。そのブログ版ということで、今後、雑記帳的に書き続けていきたいと考えております。